メンターとしての中国古典

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紺碧の将

夢に胡蝶と為る

2021.12.25

「胡蝶の夢」として荘子(そうじ)の有名な一説で、全文は以下となります。

 

 昔者(むかし)荘周(そうしゅう、荘子のこと)夢(ゆめ)に胡蝶(こちょう)と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自(みずか)ら喩(たの)しみて志(こころざし)に適(かな)えるかな。周(しゅう)たるを知らざるなり。 俄(にわか)にして覚(さ)むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周(しゅう)なり。

 知らず、周の夢に胡蝶(こちょう)と為れる(なれる)か、胡蝶(こちょう)の夢に周と為(な)れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)有らん(あらん)。此れ(これ)を之(これ)物化(ぶっか)と謂(い)う。

 

 その意味は、「荘周(そうしゅう、荘子自身)は夢の中で蝶(ちょう)になった。ひらひらと飛んでいて、蝶そのものであった。自身が楽しくて、思いのままだった。そして自分が (人間の)荘周であることに気づかなかった。急に目が覚めて、ハッと我にかえって、そこには荘周がいた。(私には)わからない、(はたして)人間である周が夢の中だけで蝶になったのか、(それとも)蝶が夢の中で人間になったのか。 (常識的には)荘周と蝶には必ず区別があるはずである。(しかし、実際は常識どおりではない。)このこと(=夢のように、区別などないのということ)を「物化」(ぶっか)(=万物は変化する)という。今の私は、蝶なのか私なのか。まさに物化の状態である」となります。

 

夢は楽しいもの?

 

 眠りの中で見ていた夢が終わり目が覚めた時「夢から覚める」と言いますが、起きている時に見るものを現実と思い、眠っている時に見るのが夢であり、仮想のものに過ぎないと思っています。

 しかし、本当は眠っている時の夢が現実であり、目が覚めた状態で現実と思っているものが実は夢なのかもしれません。よくよく考えてみれば、本当はどちらが夢でどちらが現実かは判定のしようもなく、我々は思い込みで生きていることを否定できません。

また、楽しくぜひ実現したい理想の姿を「夢」という言葉で表現します。しかし私の場合、眠っている時の夢に出てくる状況は理想とは程遠いものです。思うように行かずヘトヘトになる、大変でヤバい事態になった、などハッと目が覚めて「夢でよかった!」とホッとすることが少なくありません。そう考えると、夢は楽しいもので、現実は厳しいものであるといったイメージは間違っていることになります。

 

夢と現実の逆転

 

 私は現在60歳ですが、若い頃に夢や理想と思っていたことが、現在では逆転していることが少なくありません。

同世代の人たちを見渡すと、有名大企業に就職したけれども、50歳を超えると役職定年、60歳で定年、65歳まで嘱託契約と、段階的とはいえ強制的に組織から退去を求められます。さらには企業合併で地位の下克上が起きたり、不祥事が次々マスコミに取り上げられ会社のブランドイメージが失墜することもあります。入社した時には夢が叶って若い時は順風に見えたけれども、今になってに、厳しい現実に直面するケースが少なくありません。

 一方、希望が叶わず無名の大きくない会社に就職しても、あきらめず頑張り続けて、今では社長に抜擢され、苦労は多いものの使命感と夢を持って頑張っている人もいます。

 私も就職で夢を叶えたとは言えませんでした。そして27歳で転職し、39歳で独立しました。会社のブランドも何の後ろ盾もなく、少しの風にでも吹き飛ばされそうな厳しい現実と向き合ってきました。しかし、すべて自分の自由意志で動くことができ、定年退職もなく、徐々に自分の理想や夢の状態に近づいているようにも思えます。

 

そんなことはどちらでもよい

 

 荘子は、世の常識や人の価値基準はさまざまだが、いま目の前のことが真実であり、それがその人生であることに変わりはなく、優劣や成否を論ずるよりも、何がどうあれすべてを肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればよいのである、と言っているのです。

「夢が現実なのか、現実が夢なのか?」「何が成功で、何が失敗か!」「誰が勝者で、誰が敗者か?」「誰が賢くて、誰が愚かか?」しかし、そんなことはどうでもよいことだ、と荘子は言っているのです。

「人間万事塞翁が馬」や「上善は水の如し」と言われるように、表層的なことや一時の現象だけで判断するのではなく、どんな状況に陥っても、最善を尽くし立ち直れるレジリエンス(復元する力)こそが大切なのではないでしょうか。

 

無為自然

 

 老荘思想と言われるように、荘子は老子と同じような思想を持っています。その思想の中には「無為自然」という考え方があります。

 無為とは、何もしないのではなく、積極的に見守ることを言います。例えば、幼児がフラフラよちよち歩きするようになった時どうするか。見守るしかない。脇を抱えては訓練にならない。かといって目を離したりすれば、転んで大きな怪我をするかもしれない。したがって、いつでも手が出る状態に構えて、緊張感をもって見守っていなければならない。これは、何も行わないともいえるが、行うよりもっと積極的な姿勢であるともいえます。

 また、自然とは自(おの)ずと然(しか)り、つまり物事は落着くことに落ち着くということです。無理に行動を起こすことは、自分の意図や利益に基づいていることが多いのですが、そこに失敗の原因が隠れています。つまり他人は総て自分の思い通りに動くと考えており、それは自己中心的で、他人の反発を招きかねない危険性を孕んでいるのです。

 よって、無為自然が一番だと言うのです。

 

現実の世界に夢を持って生きる

 

 そこで、夢と現実を区別するのではなく、現実の世界に夢を見ることが大切なのではないでしょうか。つまり、人間だけに与えられた特別な才能である想像力を働かせて未来見る。現実がどんな状態であれ、自分の持ち味を武器にして未来を切り拓く。ない物ねだりではなく、自分の持つ有形無形の資源を最大限に活かす。劣等感や不運、理不尽な体験からくるネガティブな感情を反転させ、ポジティブなエネルギーに変え前進する。そして覚悟を持ってしかもプロセスを楽しみながら夢を追う。そんな人生が良いのではないかと思っています。

 

本連載『メンターとしての中国古典』が電子書籍になりました。

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