悩みをつき抜けて歓喜に到れ!
日本の年の瀬に流れるお馴染みの曲といえば「第九」。ベートーヴェンの『交響曲第9番』だ。なかでも耳に残るのは第4楽章の合唱「歓喜の歌」だろう。シラーの詩『歓喜に寄す』に感銘を受けた22歳のベートーヴェンが、のちに曲をつけたという話は有名である。世に出たのは聴覚を失ってからだったということも。ベートーヴェンの音楽を愛したロマン・ロランによる著書『ベートーヴェンの生涯』にも、それは詳しい。
聴覚を失いつつあったベートーヴェンの失意は、1822年に上演された歌劇『フィデリオ』で決定打となった。彼の振る指揮棒にオーケストラは混乱し、演奏は幾度も中断、途中退場を強いられる。
まったく音が聞こえていないことを、彼は付き添っていた知人によって知ることになるのだが、この恐ろしい出来事は生涯ベートーヴェンにつきまとうことになった、とその知人は手記に残している。
そしてベートーヴェンは、
「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」
と言わんばかりに『交響曲第9番』を書き遺した。
失意の2年後、『第九』の初演を指揮し終えたベートーヴェンは、歌唱者の女性に促され会場を振り向いてはじめて、会場中のスタンディングオベーションによる拍手喝采を眼で知るのである。
人はなぜ、悩み、苦しむのか。
古今東西、一度も悩みも苦しみも味わったことはないという人間などいないだろう。
悩みを悩みとも思わず、苦しみを苦しみと思わないことはあったとしても。
宗教や芸術が生まれたことがそれを証明している。
人によって、悩みや苦しみの種類や度合いは違う。
楽しみや喜びが人によって違うように。
ときに人は、「なぜ自分だけが」という思いに囚われる。
しかし「そこを突き抜ければ歓喜が待っている」と思えたなら、状況は好転するにちがいない。
辻邦生の『西行花伝』に、こんな歌がある。西行が厳刑により配流された崇徳院にあてた歌である。
―― 世の中を 背く便りや なからまし 憂き折節に 君逢わずして
鳥羽院のあとの帝位を巡る争乱で、対抗する白河院側の策謀により罪人となった崇徳院の不運を嘆き、それでもこの世に救いはあると慰めの歌を送った西行。その意は、
「不運は浮世を離脱する真の機会(たより)であり、その巡り合わせは崇徳院が生きながら死してこの世を統べる御仏になることをさだめられているからなのです」
と、大方そんな感じらしい。
なるほど浮世の悩み苦しみは、その先にある至上の歓喜にいたる道なのかもしれない。
ベートーヴェンの金言と西行の歌に、そのことを思う2020年の年の瀬である。
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(201228 第691回)