自由とわがままとの境は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり
独立自尊を説いた福沢諭吉。名著『学問のすゝめ』にこの言葉はある。日本近代化の明治維新より遡ること約9年前、江戸幕府使節団の一員として渡米した福沢は、大国アメリカと島国日本との文化の違いに驚愕したという。その衝撃が後に福沢に『学問のすゝめ』を書かせたのである。
自由になりたいと人は言う。
けれど、自由になったらなったで「自由すぎるのはちょっと…」などと勝手なことを言いはじめたりする。
まったく、自由がいいのか、不自由がいいのか。
たとえば、サッカー選手になりたいという子供がサッカー選手の夢を叶えたとしたら、彼はきっと、サッカー選手にまとわりつくルールや責任も享受しなければならないし、念願の夢が叶ったのであれば、彼はそれを拒否しないはずだ。
野球選手にしろアイドルにしろ、どんな職業に就いたとしても、それは同じ。
「自由」を欲しがるなら、「自由」につきまとうルールや責任をも受け取る覚悟をしてほしい。
そもそも生き物はみんな不自由なのだ。
草木は根付いた場所から動けないし、野生の動物だって、思うがままに敵のなわばりを犯すことは死を意味する。
大空を羽ばたく鳥でさえ、自由に見えても、そうではない。
外敵はいるし、風雨にも合う。
自由であればあるほど危険はついてまわる。
そんなこと言ったって、自由になれば自分の思い通りにできるじゃないかって?
バカ言っちゃいけない。
本能の赴くままに思い通りにふるまうのは、単なるワガママ。
子供が寝っ転がってジタバタしながらお菓子をねだっているのと同じ。
周りに迷惑をかけることを「自由」とは言わない。
「大人の自由」と「ガキの自由」の違いは、他人への配慮があるかないかってことだろう。
今回は、「五月雨」を紹介。「さみだれ」です。梅雨の季節に東北を旅していた松尾芭蕉も――五月雨を集めて早し最上川 と詠んでいます。続きは……。
https://www.umashi-bito.or.jp/column/
(200626 第649回)