偉大な日本人列伝
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人心掌握に長けた無私の軍人

第9回 児玉源太郎

 桂太郎、小村寿太郎とともに〝明治の三太郎〟と称される児玉源太郎は、日露戦争における功労者である。児玉がいなかったら、陸戦で勝利を得ることはできなかったかもしれない。当時のロシアは、常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で約8倍という途方もない超大国であり、陸軍は明らかに世界一であった。明治天皇も伊藤博文も開戦は望まなかったが、かといって状況を座視するだけではやがて侵略されるのは目に見えていた。植民地、少なくても属国化は免れなかったであろう。まさに「進むも地獄、退くも地獄」という状況のなか、日本人が一丸となって戦い、辛くも勝利を収めた戦争であった。

 戦争における人心掌握ほど困難なものはない。一歩まちがえば、死が待っている。極限の状態のなか、軍隊の機能を最大限に高めるには、要となる人物の「大きさ」に左右されるが、その適任者として当時、児玉源太郎という人物がいたことは日本にとって幸いだった。

 明治政府に招かれ、陸軍大学校を指導したドイツのメッケルはこう語っている。

「ゼネラル・コダマがいる限り、日本に懸念はない。必ずゼネラル・コダマがロシアを破って勝利を得るだろう」

 メッケルは、児玉の度量の大きさと類い希な大局観、判断力、実行力、そして公正無私な精神を見抜いていたのである。事実、児玉に関する資料に、醜聞の類はない。元老たちや海軍の功績者・東郷平八郎でさえいくつかの欠点を指摘されているが、児玉に限っては何もないと言っていい。郷土の畏友・乃木希典が旅順を攻めあぐね、多くの死傷者を出して行き詰まっていたとき、当時児玉は総理大臣に次ぐ内務大臣という地位にあったが、自ら降格を志願して火中の栗を拾う覚悟を決め、満州軍総司令部総参謀長として前線へ赴き、驚くほど短期間で二〇八高地を奪回し、旅順港内にいた旅順艦隊を撃滅する足がかりを作っている。昭和20年の大東亜戦争終結まで、降格人事を了承したのは(まして自ら望んだのは)児玉源太郎ただ一人である。自分の地位や名誉にはいっさい無頓着で、ひたすら国家の安泰を考え、行動に移すことができた。重大な問題を前にして、児玉の出した結論は多くの時間を要さなかったが、それは私心を捨て、公を優先することのみを前提とし、熟考したからにほかならない。

生い立ち〜戦績

 児玉源太郎は1852(嘉永5)年、毛利支藩の徳山毛利藩の中級武士の家に生まれた。父・半九郎は吉田松陰が唱えた尊皇攘夷の激烈な信奉者で、藩政を司る佐幕派の冨山源次郎から自宅蟄居を命じられ、それが引き金となって悶死する。その後、児玉家は源太郎の姉の婿・次郎彦に譲られるが、次郎彦も尊皇攘夷派だったため、刺客を差し向けられ、自宅の玄関で殺害される。時に源太郎、12歳。義兄の屍を母とともに片付けるという体験をする。

 児玉家は家禄を失い、武家屋敷から追放されるが、やがて冨山は失脚し、児玉家の再興がなった。その後、源太郎は13歳で中小姓として召し抱えられ、14歳で初陣を飾っている。ちなみに源太郎が寺子屋で学んだのはこの歳までだが、なぜ、学歴が皆無に等しい児玉源太郎が、頭脳明晰にして情に厚く、大所高所から物事を判断することができ、多くの人材を意のままに操って日本の危機を救うことができたのか、一考の余地がある。

 1869年、戊辰戦争に従軍し、箱館まで転戦。その後、佐賀の乱、神風連の乱、そして西南戦争では熊本鎮台参謀として参戦している。その時、乃木希典もいたが、乃木はその頃から戦が下手で、児玉と比べると、明らかにくすんでいた。児玉は人格高潔な乃木に終生、一目置いていたが、そのことと人を動かす能力、大局的な判断ができるかどうかは関係ないのだ。乃木の戦下手を後に司馬遼太郎が『坂の上の雲』で暴露し、世の乃木ファンから顰蹙をかったが、実際に乃木は司令官向きの人物ではなかったようだ。

後藤新平の後ろ盾

 前回、後藤新平を紹介したが、後藤の後ろ盾となっていたのが児玉源太郎である。逆の見方をすれば、児玉の人を見る目が後藤に活躍の場を与えたということでもある。

 台湾は1895(明治28)年、日清戦争の後、下関条約によって日本に割譲されたが、当時はまだ未開の地であった。匪賊が跋扈して治安は悪く、疫病も蔓延していた。歴代の台湾総督は台湾経営に嫌気をさし、乃木希典もついには投げ出してしまった。人格高潔で融通の利かない乃木は弁髪禁止令など、上から押さえつける政策をとったが、それらは住民の反感をかうなど、逆効果となってしまったのだ。

 そこで第4代台湾総督として白羽の矢がたったのが、児玉源太郎である。そして、1898年、台湾に赴任した児玉をまちうけていたのが後藤であった。後藤は「大風呂敷」と渾名されるほど構想が気宇壮大で、台湾に赴任するなり1080人もの役人を首にするなど、勇猛果敢にさまざまな改革を断行したが、後ろに児玉がいたからこそできたことでもある。

 だが、いかに実行力のある後藤でも手を焼いたことがあった。日清戦争後、大陸から引き揚げてくる凱旋将兵約23万人の集団検疫である。当時、コレラ、チフス、赤痢など凱旋兵士が持ち帰った病原菌によって集団感染するということがたびたびあり、凱旋兵士の集団検疫は世界的な課題でもあった。後藤は準備万端整え、兵士たちを待ち受けていたが、大きな危惧を抱いていた。それは、命を賭して戦った猛者たちが集団検疫に応じてくれるかどうか、ということだった。23万人ともなれば、長い時間がかかる。その間、ギュー詰めの軍艦内で大人しく待っているとはとうてい思えず、そのことを児玉に相談した。

 そこで児玉は一計を案じる。凱旋第一陣として小松宮彰仁親王を乗せた船が帰港することになっていた。児玉は親王に拝謁を求め、こう言ったという。

「殿下に病菌が付着しておる恐れがあります。そのままのお体で陛下に戦勝の報告をなさるのは畏れ多いと存じます。消毒の設備はどうなっているのかとお気にかけておられると思い、私どもは設備を整えてお待ちしておりました。いかがなされますでしょうか」

 親王はすぐに承知し検疫を受けた。これが上級軍人に伝わり、ほぼ2ヶ月で大検疫作業が終了した。船686艘、人員23万2346人、物件90万個という世界初の大検疫であった。

 このようなエピソードの類は他にもいくつかある。児玉はけっして媚びるわけでもなく、かといって上から押しつけるわけでもなく、自然にそうならうよう仕向けることができたのである。まさに人間の何たるかを熟知していたからこそなしえた人間操縦術ではないか。

ゼネラリストの本領発揮

 日露戦争での児玉の活躍を見ると、まさしくゼネラリストという印象を受ける。ロシアとの戦争が避けられない状況になっても日本政府はなかなか開戦の決断をできないでいた。前述のように、国力が圧倒的にちがう相手との戦争である。多くの犠牲者を出すことは火を見るより明らかであったし、そもそも明治天皇は開戦に賛成ではなかった。

 しかし、戦わずロシアの言いなりになれば、とことん隷従させられることも明白だった。当時の世界の常識では、強い国が弱い国に対して、搾取の限りを尽くすことは〝悪〟とはみなされていなかったのである。

 対露戦準備中、重大なことが起こった。柱となって作戦を練ってきた参謀本部次長・田村怡与造が急逝する。田村の後任を務められるのは児玉以外にいないと衆目が一致し、児玉も自ら内務大臣の位をなげうって降格人事に甘んじ、作戦の指揮を執ることになった。

 この時、児玉が偉大だったのは、単に戦場での作戦のみならず、さまざまな面で手を打ったことである。財界の大物・渋沢栄一を訪ね、戦費調達を要請し、断られた末、口説き落としている。その後、日本は高橋是清(後の総理大臣)の尽力もあって外債を発行し、莫大な戦費を調達するが、児玉は金の工面まで視野に入れていたのだ。

 また、当時は陸高海低で、あくまでも陸軍の発言力が上だったが、児玉はこの戦争は陸海軍の相互協力なくして勝利はありえないと判断し、薩摩閥で占められていた海軍に出向き、自ら陸軍を対等の立場に下げ、協力を要請し、成功している。薩長同盟の再現が、日露戦争直前にもあったのだ。

 情報戦を重視し、海底と陸上に通信ケーブルを敷設させるという先見の明にも驚かされる。戦線と軍司令部の間にいくつかの中継地をつくり、モールス信号によって情報のやりとりをした。

 いざ開戦となり、日本陸軍は優勢を維持するものの、肝心の旅順攻略に手を焼いていた。旅順の港湾に引きこもっている艦隊を撃滅しなければ、やがて来航するバルチック艦隊との挟み撃ちに遭い、日本の連合艦隊は著しく不利になるからだ。制海権を失えば、大陸に上陸している何十万人という兵士を見殺しにしてしまうことになる。

 しかし、乃木司令官と参謀長の伊地知幸介は正面突破にこだわり続け、いたずらに死傷者を重ねるだけであった。大型の大砲を使うべし、標的を二〇八高地に変えよとの軍司令部からの指示に対しても従わず、その間にも数万という兵士が戦場に散っていった。

 やむなく新たに満州軍司令部を設置し、総司令官に大山巌が、総参謀長に児玉源太郎が就任し、児玉が前線へ赴くことになった。

 児玉は二〇八高地に対し、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで一日で配置転換を行うという作戦を強行し、重砲の援護射撃の下、歩兵による突撃を同時に行い半日で陥落させたのである。さらに二〇八高地に弾着観測所を設置し、旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦隊は壊滅した。

 前線に赴く時、児玉は「指揮権を児玉に渡すように」という内容の大山巌の命令書を懐に忍ばせていたが、乃木の誇りを傷つけることなく自分に指揮権を移すにはどうすればいいかを考え、絶妙な言い回しによって自然に指揮権を委譲させている。しかも、戦いの後、「乃木がいなかったら旅順は落ちていなかった」と公言し、乃木の面目を保っている。

 他人の成果を我がものとする輩はいつの時代も少なくないが、児玉は実績や栄誉などというものにほとんど無頓着であった。

 日露戦争で力を使い果たしたのか、ポーツマスにおいて日露の講和が成立した翌年、児玉源太郎は脳溢血のため死去した。享年54歳であった。

 歴史に「イフ」は禁物と言われるが、もし、あと10年か15年、命を長らえていたら、日本のその後の歩みも大きく異なったにちがいない。児玉は「戦争を始めるものは、戦争を終わらせることを考えておかなければならぬ」「十二分に勝算のない限り、戦争などすべきでない」など、いくつかの教訓を遺しているが、いずれも過酷な戦場で得た真理であろう。

 最後に、郷里のために「児玉文庫」を設立したことを記しておきたい。このことは当時の同盟国・イギリスでも新聞などで報道され、話題になっている。

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