偉大な日本人列伝
HOME > 偉大な日本人列伝 > 〝鉄の意志〟で未曾有の内憂外患を乗り越える

〝鉄の意志〟で未曾有の内憂外患を乗り越える

01 大久保利通

君子は器ならず

大久保利通

 幕末から明治維新にかけての血湧き肉躍る数々の出来事は、今もわれわれを魅了するが、注目すべきは徳川の世を壊した「その後」ではないか。〝だれか〟がその後の再構築を担ったのだ。

 西洋列強は近代兵器をもって恐喝してくる、国内に目を転じると、統治機構は崩壊している。それまでの日本人が体験したことのない未曾有の危機に見舞われていた。
 その一大国難から救ったのが、大久保利通である。
 大久保は革命家としてより政治家として秀でている。しかも、狩猟型のトップリーダーだ。
 渋沢栄一は『経営論語』にこう書いている。

 

――私は大久保利通公にひどく嫌われたものであるが、私もまた大久保公をいつも厭な人だと思っていた。しかし、公が達識であったのには驚かざるをえなかった。公の日常を見るたび、「器ならず」とは大久保公のごとき人を言うのであろうと思っていた。

 

 渋沢は西郷隆盛も木戸孝允も「器ならず」の人物だったと評しているが、なかでも大久保のスケールに言及している。「器ならず」とは「論語」為政篇に出てくる「子曰く、君子は器ならず」のそれである。凡人は特定の役割しかないが、非凡な人は一技一芸に秀でた器を超えたものがあり、将に将にたる、奥底の知れない大きなところがあるというものである。

 

 司馬遼太郎は著書で、大久保が新しい日本の配電盤を作ったと書いている。たしかに大久保は30年構想を描いていた。明治10年までが維新の整理をする期間(実際、西南戦争は明治10年に終わっている)、次の10年間で内政に勤しみ、中央集権によって西洋列強に伍す強固な国家基盤を作り、明治30年以降、後進の賢者に譲り、徐々に民権を与えていくというシナリオだ。大久保は明治11年に暗殺されているから、新国家作りの実務に携わった期間は存外少ないが、短い期間で成し遂げたことは膨大である。
 ここで大久保の事績をおさらいしてみよう。

 

1、公武合体運動

政治体制を公武合体(朝廷と幕府、雄藩が連携し政治を行う)の実現に向けて奔走

2、倒幕運動

公武合体が不可能と判断したあと、薩長土肥などが連携し、倒幕に方向転換する

3、版籍奉還

既得権益解体の第一歩。薩長土肥の四藩が天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)を返還する

4、廃藩置県

藩を廃して県を置き、中央集権体制の基盤をつくる。これによって200万人を超える失業士族が生まれた。廃藩置県の実行者は山県有朋や鳥尾小弥太らだが、推進は大久保が中心になっている

5、地租改正

西洋をつぶさに見た大久保は、税にメスを入れる。それまでの年貢米に代わり、税金を現金で納める制度を導入した。これによって農民から大きな反発を受けた

6、内務省設置

中央集権体制の基盤作りを急ぐためドイツに習って内務省を設置。自ら内務卿となる

7、不平士族の鎮圧

佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を次々と鎮圧。特に佐賀の乱の首謀者・江藤新平に対しては自ら司法権を携えて裁判にあたり、即刻処刑にするなど、断固とした措置をとる。その後、西南戦争が勃発するが約7ヶ月を費やし、薩摩軍を鎮圧。西郷らが自刃し、明治新政府への反乱が収束する

8、殖産興業・富国強兵

国の基礎を固めるため、産業育成を図る

 

 大久保がリアリストと言われる所以は以上の政策実行によるが、こうでもしない限り、未曾有の国難を逃れる方法はなかっただろう。

同時代の傑物からの圧倒的な評価

 これだけ絶大な国家的貢献をした人物が、国民から不人気なのはなぜだろう。
 ひとつには、日本人は権力をもった実行者タイプの政治家が嫌いだということ。もうひとつは、西郷の声望を高めるため、意図的に大久保を政敵として貶めたということ。大河ドラマの「西郷どん」はその典型だ。
 しかし、先の渋沢栄一をはじめ、大久保に対する真の評価は、同時代を生きた偉人たちの大久保評を見ればわかる。

 

 越前藩主だった松平春嶽は幕府側の人間だが、憎き敵であったはずの大久保についてこう述べている。

 

 ──古今未曾有の大英雄と申すべし。胆力に至っては世界第一と申すべし。維新の功業は大久保を以って第一とするなり。世論もともあれ、大久保の功業は世界第一とするゆえんなり。

 

 のちに総理大臣となる〝最後の元老〟西園寺公望はこう述べている。
 ──維新の創業に至りては、実に内外政治の困難なる事今日においては到底想像の及ばざるところなり。この時に当たり、もし大久保さん無かりせば明治政府は瓦解に終わりたるを確信す。

 

 東洋のルソーと評された思想家・中江兆民はこう語った。
 ──大政事家とは、一定の方向と動かすべからざる順序をもって政治を行い、俊偉の観があり、有言実行であり、真面目な人物である。大久保を徳川家康とともに、日本の大政事家に挙げる。

 

 後世の歴史家の大久保評もあげておこう。

 

 半藤一利氏は『文藝春秋』にこう書いている。
 ――(維新後の新政府の体たらくを批判した後)この危機を乗り切ったのは、ひとつには大久保利通のたぐいまれな政治センスが大きかったと思います。

 

 司馬遼太郎は、『翔ぶが如く』で大久保の本質をこう活写している。少し長くなるが、引用する。
 ――かれは日本国の政綱をまとめるにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷ともいえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。(略)この種の冷酷な拒否的態度と政策への断固とした集中力の発揮は、その当事者の精神の根底にいつでも死ねる覚悟がなければならず、大久保にはそれが常住存在した。(略)大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。

 

 石原慎太郎氏は、『私の好きな日本人』(幻冬舎新書ゴールド)にこう書いている。
 ――西郷という人生かけての親友への友情よりも、大久保にとっては自ら預かることになってしまった日本という新生国家への忠誠心の方がはるかに大切だったのは自明で、もしも大久保が西郷との友情にかまけて政府を操り運営する仕事を投げ出してしまっていたら今日の日本はあり得なかったに違いない。

 

 渡部昇一は『世界に誇れる日本人』(PHP文庫)にこう書いている。
 ――人望という点でいうと、西郷にものすごい人気が出たから大久保にかげりがあるように見えるが、西郷と大久保が対立したときに大久保についた人は多い。薩摩の人でも西郷ではなく大久保を選んだ人は少なくなかった。西郷の弟の従道まで大久保についているほどだ。(略)大久保が人を惹きつける魅力は何か。一つは従う人に安心感を与えることだと思う。ビジョンがはっきりしているし、やると決めたことは必ずやる。

 

 大久保は人物を見る目も優れていた。当時は自分と同じ出身藩の人材を優先的に登用することが常識だったが、大久保は能力がある者は分け隔てなく登用している。たとえ、陸奥宗光のように自分を嫌っている者でも。中江兆民は土佐藩出身だが、大久保なら出身藩にこだわらず判断してくれると思い、自分を欧米に留学させてほしいと直訴している。

 

 ところで不思議なのは、暗殺される前、島田一郎ら下手人が加賀を発った情報は大久保にも警視庁にも知らされている。それでも大久保は身辺警護をつけず、大久保の腹心とも言うべき川路利良・警視庁大警視も警護をつけるよう命じていない。大久保は、身辺警護をつけるのは弱虫のすることだと思っていたようだ。
 下手人はごていねいに暗殺する数日前、大久保宛に「お命をちょうだいする。ただし、闇にまぎれて不意打ちをするような卑怯なまねはしない」と通告している。その言葉通り、明治11年5月14日朝、赤坂御所へ向かう途中、紀尾井坂で大久保は日本人らしくない長躯をメッタ刺しにされ、47年の生涯を閉じた。
 これは私見だが、その時大久保はすでに生への執着を失っていたのではないだろうか。前年、盟友の西郷を死に追いやり、それ以上生きながらえる意志がなくなっていたのではないだろうか。真偽はわからないが、死ぬ前に日本の未来図を伊藤や大隈に託していたことはまちがいない。
 新生日本国家の基礎作りを一身に負った大久保は、死ぬまで自らの職務に忠実であった。まさに政治のプロ中のプロと言っていい。

 

 内務卿に就任してからの大久保は、絶大な権力を一身に集めていた。現在でいえば、総理大臣のほか、重要な省の大臣を5つか6つ兼ねるほどの権力を持っていた。
 大久保が凶刃に倒れたあと、世間の関心はあることに集まっていた。あれだけの権力を背景に、いったいどれほどの蓄財をしていたかと。当時、すでに明治新政府の要人たちが汚職に手を染め、不正に蓄財していたという背景があったから、なおのこと関心が高まっていた。
 しかし、大久保家の蓄えは、わずか140円しかなかった。いっぽうで借財は8000円という巨額に達していた。明治10年当時の貨幣価値を現代のそれに換算すると約15000倍。その計算によると、預金210万円に対して、借金は1億2000万円となる。
 公共事業の予算が足りないため、大久保は個人で知人から借金し、あてがっていたのである。家も土地もすべて抵当に入っていたため、大久保の死と同時に、遺族は住居すらなくなってしまったというありさまだったという。まさしく〝宰相〟の名にふさわしい生きざまだった。

SPONSORED LINK

Recommend

Topics

記事一覧に戻る
Recommend Contents
このページのトップへ