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紺碧の将
Interview Blog Vol.117

人を介して物づくりをしているという誇りを胸に、人との縁を大切にしていきたい。

兼光 代表兼光秀翁さん

2021.07.09

 

靴の資材という物を扱って、人と人の架け橋をしている兼光さん。コロナ禍で世界の大転換期にある今、物づくりは復興への大きな鍵を握っていると考えられます。どんな思いで物づくりに携わっているのか、お話しを伺いました。

靴の世界に導かれて

「三つ子の魂百まで」と言われますが、兼光さんはどんな子供だったのですか。

泣き虫でした。ことあるごとに泣いていました(笑)。嫌なことをたくさん言われ、そのたびに泣いていましたね。だからなのか、自分の中に核のようなものができたともいえます。「絶対に見返してやる」って。子供の時分に経験して良かったとは言えませんが、自分が嫌な思いをしたからこそ、人に言ってはいけないことや心の痛みをわかるようになりましたし、強いものに立ち向かっていけるようになれたと思っています。

刀の傷はすぐに癒えても、心ない言葉によって受けた傷はなかなか消えないということわざもあります。

あと、自分で言うのもなんですが、子供の頃から勉強が好きでした。社会人になってからもそうで、30歳の誕生日に「宅地建物取引主任士」の資格を取ると決めました。もし3回挑戦してダメならあきらめようと(笑)。日中は仕事があるので、寝る前に必ず問題を解き、休日も勉強にあて、2年目で合格しました。今のところ、その資格を使う予定はまったくないですが(笑)。本を読むのも好きですし、興味が湧いたテーマの勉強は好きなんです。

お祖父様とお父様も靴に関わる仕事をされていたとお聞きしました。

そうなんです。

子供の頃から靴づくりに興味があったのですか。

いいえ、まったく靴には興味がありませんでした。将来、なにかになりたいという夢もありませんでしたけど。いずれは靴業界に進むんだろうなと漠然と思ったりしましたが、親が苦しい思いをしているのを見て、「この業界には進まんとこ……」と。家業を継ぐ以外選択肢がなかった父からは「何でも好きなことをせい」と言われましたが、父と違って、たくさん選択肢があった自分は恵まれ過ぎてボケッとしてたんだと思います。

靴の資材卸しという仕事に興味を持ったきっかけはなんですか。

やはり祖父と父の影響が大きいですね。ただ、祖父や父が敷いたレールに乗るのではなく、同じ業界であっても外へ出て修業を積もうと決めました。いずれは家業を継ぐことになるとは思っていましたが、いったん外に出て、いろいろなことを吸収しようと思ったんです。案の定といいますか、ある時、自分のやりたいスタイルと家業のやり方ではかなり違うことに気づきました。祖父は革を裁断する仕事をしていましたので、1日中機械と向き合っているわけですが、僕は人と話すことが好きだってことが。靴はさまざまな資材や加工が合わさってひとつの形になっているのですが、メーカーさんが製造した資材を仕入れて、それを求めている会社に伝えていくことに魅力を感じたんです。

外に出たからこそ気づけたことはたくさんあると思いますが、その中でも影響を受けた人はいますか。

20歳の時に初めて就職した会社の社長です。人との接し方、仕事に対する姿勢、商売のいろは、ひとことでは説明しにくいですが、社会人としての基礎を徹底的に叩き込まれました。こういうことは、ひと様からでないと学べないですよね。

私も初めて就職した会社で、社会人としての基本を教えて下さる方がいて、ありがたいなと実感しました。人との出会いが自分を変えていくきっかけになることは多いと思いますが、兼光さん自身、今までを振り返って、ご自分がどう変わったと思いますか。

16年間、靴業界一筋、この仕事をしてきましたが、自分が変わったというより、人と関わることが大好きという根っこの部分はずっと変わりません。むしろ、ますます強くなっている。それを確信できました。

この業界に入ってから、なにか大きな失敗とか、ありましたか。

最初に就職した会社では、営業をしました。インセンティブ制度でしたから売り上げに比例して給料に反映されたのですが、ある時、自分がこんなにも給料をもらっていいのか、と思いました。また同時にこの歳でこんなに稼げてしまったら、この先、自分という人間が腐ってしまうのではないかとまで危機感を感じました。しかし、そう思っていたにもかかわらず、気がつくと同年代で安月給の友達に対して横柄になってしまい、友達が離れていってしまいました。その時、心底からこのままではダメだと気づきました。少しお金を稼げたくらいで、自分はこんなに嫌味な人間になってしまった。これからはお金に執着するのではなく、自分を高めるためにもっと勉強しようと思ったのです。そして、もう一度、ゼロから始めるつもりで転職しました。23歳の時でした。

人が離れていったことが兼光さんの転機となったのですね。

そうですね。それまでは、靴を作るための資材を提供するという立場でしたが、次は靴をエンドユーザーに届ける立場からこの業界を見てみたいと思い、靴製品を百貨店主体で展開する商社に勤めました。

いろいろな立場を実体験するって、大切なことだと思います。

そこで3年間勤め、26歳になった自分に聞いてみたんです。同じ〝売る〟ことでも、完成させるために必要な商品と完成した商品、どっちの立場で営業という仕事をするのが楽しいかって。自分の答えは、「靴を生み出すまでの過程に関わりたい」でした。いろんな人が試行錯誤しながら協力し合って、一つの商品を作る。そのようにして出来上がった商品の反響がいいと聞いた時は自分のことのように嬉しかったんです。そして今年の2月、靴資材卸しの新規事業を立ち上げたのです。独立して思ったのは「この仕事が楽しい、この仕事が好きだ」ということでした。

独立後の仕事の醍醐味

仕事が好きだと思えるのは素敵なことですね。兼光さんは、仕事のどんなところに楽しさを感じていますか。

自分が靴作りに携わった製品が世の中に出ていくことです。製造メーカーではないので靴作りをしているわけではないですが、ただ単に求められた資材を提供するだけでなく、ヒット商品を生み出すためにさまざまな提案をダイレクトに伝えています。そうして製品になった靴が世の中に受け入れられて追加発注が来た時の喜びは、今も変わらないですね。

反対に苦労したことや失敗から学んだことはありますか。

靴資材としての営業を再スタートしてすぐのことですが、ある方から紹介をもらって営業へ行きました。そこには同業他社がやりたがらないような難しい案件がありました。私はどんな仕事であろうがまずはやってみよう、これを形にしたいと思い、仕事を請けたのですが、型の問題点や納期面など……途中で、請け負ったことを後悔したほど大変な仕事でした。

どんなふうに大変だったのですか。

その資材は海外から仕入れていたのですが、届いたのはあまりいい資材ではありませんでした。もし納期が遅れればペナルティも課せられます。国内でどうにか直せないか、考えました。とその時に、人とのつながりの大切さや国産技術の凄さを実感させられました。多くの人や会社が自分に協力してくれたんです。入荷次第、すぐに商品をお客さんのところで検品し、不良品は持ち帰り協力工場へ、夜会社に帰って溜まっている仕事を段取りするというふうに、寝る間もなく働きました。すべてを納品した日、『あぁ、もう2度と発注してくれないだろうな』と思いながら、(最後の)挨拶をして帰ろうとした時、社長さんが「コーヒーでも飲むか?」と誘ってくれたんです。どうやら、自分の仕事を影でずっと見てくれていたのです。初仕事がこのような不手際だったにもかかわらず、また発注したいとも言ってくれました。営業マンとして、これ以上嬉しいことはないですよね。

トラブルが起きた後、いかに丁寧に対応するかが大事ですね。その社長さんとは今でもおつき合いはあるのですか。

はい。人と人との縁は不思議だと思うんです。コーヒーを飲みながらその社長といろいろな話をしているうちに、社長には新しい夢があるということがわかりました。その夢は、自社ブランドの靴を作り、百貨店で販売することだと。私はそのお話を聞き、とっさに「その夢、僕が叶えます。僕も関わらせてください」と言いました。社長は、「さっきまで資材の検品しとった人間が何を言うとんねん」と思ったと思いますよ(笑)。それから、前社で働いていたときに取り引きがあった百貨店バイヤーに電話を入れました。その方からも、「いい靴を作っている会社があれば紹介してほしい」と。そこで、トントン拍子に話が進んだのです。

人と人の架け橋をされたのですね。

あの瞬間に「コーヒーでも飲むか?」と声をかけてくれた社長の懐の深さ。普通なら顔も見たくないですよ(笑)。最後はきちんと納品できましたが、その過程で社長、また従業員の皆様には本当に迷惑をかけましたからね。でもその一言があったからこそ、社長が望んでいる今後の展開を聞くことができ、一業者の自分が協力するなんてことが可能になるんですから……。その時、思いました。自分の仕事は物づくりではないけれど、人と人をつなぐことによって物づくりをしているんだなと。

兼光さんのお仕事は、社会のなかでどのような位置づけだと思いますか。

一番下です(笑)。ときどき、「何の仕事してるんですか?」って聞かれることがあります、僕はよくふざけて、『人間の一番底辺の仕事』と答えたりします(笑)。聞いた方は良からぬことを想像する人が多いですが、これはふざけているようで至って真面目な話なんです。足元・靴は、人間の身体で一番下、地べたに一番近いですよね、靴を履かない人はいませんからね。

メイドインジャパンの資材にこだわっているのはご自身の経験からですか。

そうですね。メイドインジャパンの安心感は海外製品の比ではありません。中国や韓国のパーツに比べたらどうしてもコストは高くなりますが、国産の技術・安心感はずば抜けています。だからといってすべての会社・工場に営業力まであるかといえばそうではなく、難しいと感じている方もいらっしゃる。そこで、自分が窓口になって、応援させていただきたいと思っています。

ある人から聞いたのですが、敗戦国である日本とドイツが戦後、どうしてこんなに早く復興したのか、と。その人はしっかりした物づくりができたからだと言っていました。今はコロナ禍もあり、世界の大転換期でもあると思います。そういう時こそ、自国の得意な分野を見直すべきなのでしょうね。そういう意味でも、物づくりを再興させることは大きな意義があると思います。

そうですね。だからこそ、縁の下の力持ち的な役割を果たしたいです。

先月(2021年6月),イギリスで開催されたG7サミットでは、菅総理が中国に頼らないサプライ・チェーンの再構築を提案しています。その分野で日本が主導的な役割を果たしていくという宣言ともとれますよね。

ますます好機到来ですね。

最後に将来に向けての夢、目標について聞かせてください。

営業力を持たない、持てない会社さんの代わりに、自分が良い商品を広めることです。そして「兼光」に頼んでおけば、必ず良い商品を納入してもらえると思ってもらえること。「兼光」が作り手と売り手の間に入ることによる価値を感じ続けてもらうために、自分なりの特色を出していきたいですね。兵庫県神戸市の長田というところは靴作りのメッカともいえるような地域ですが、これからもこの地で真摯に取り組んでいきたいと思います。

ありがとうございました。兼光さんとお話をしていて、とても楽しかったです。気がつくと、予定時間より何時間もオーバーしてしまいました(笑)。

(取材・文/髙久美優)

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