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紺碧の将
Interview Blog Vol.116

自然の物に宿る生命の光を削り出す。

彫刻家岸野承さん

2021.06.18

人の心に寄り添う作品を生む彫刻家、岸野承さん。古材や石のかたちを生かしながら、羅漢像や仏像、鳥や母子像などを削り出すためには、我を消して相手に合わせていく必要があるといいます。慈愛に満ちた作品が生まれるまでのストーリをご紹介します。

モノ作りの英才教育

岸野さんの作品を初めて拝見したのは銀座一穂堂ギャラリーさんでの個展でした。僧侶や仏像、母子像といったモチーフが多いからか、穏やかな安らぎを感じました。まるで仏師のような彫刻ですが、なぜこのような作品を作ろうと思われたのですか

最初からこういう彫刻を作っていたわけではないんです。もともと私はモデリングの彫刻をしていまして、どちらかというとブロンズの方がメインでした。それが、ある時を境に今のような彫刻になり、2011年の東日本大震災の後くらいから、このスタイルが確立したように思います。

一穂堂さんでは、水墨画家であるお父様の作品と、陶芸家の弟さんの作品も一緒に展示されていました。岸野家は芸術一家のようですが、岸野さんが彫刻家を目指されたのは、やはりお父様の影響だったのですか。

物心ついたときにはもう、父は水墨画家として生計を立てていましたし、私たちきょうだいも小さい頃からモノ作りはしょっちゅうしていたんです。私は、姉と二人の兄と弟の5人きょうだいで、誕生日にはお互いに手作りのプレゼントを渡すというのが我が家の習わしだったんですよ。だから、粘土をしたり木を削ったりというのは普段からやっていました。

手作りのプレゼント交換ですか。たとえば、どんなものを作っていたのですか。

たいてい自然にあるものを使って創作するんですけど、家族で川に行って材料になるもんを探すんです。いい流木があれば、両親が「これいいんちゃう?」って教えてくれて、それで魚や蛇なんかも作りました。ヒレや鱗もぜんぶ彫るんですよ。細長い流木で蛇を作ったときは、背や腹まで一枚一枚、ていねいに、きれいに彫ってね。掘り方は父から教わりました。今思えば、モノ作りの英才教育を受けてたのかもしれませんね。
今の流木の作品は、その頃のことがヒントになってますし、当時両親からプレゼントされた菊一の彫刻刀は、今でも使ってます。

手作りのプレゼント交換は、いつごろまで続いたのですか。

中学の途中までですね。急に嫌になってやめました(笑)。

それでも彫刻の道を行こうと思ったのは、何かきっかけがあったのですか。

きっかけというか、高校に入ってしばらくして、自然に大学は美大に行きたいと思うようになったんです。そういう道しか知らないのでね。サラリーマン家庭ではないし、ずっと父親の背中を見てましたから。
それで、高校3年の夏と冬に、東京にいる父親の友人の福井一さんという油絵画家のお宅に下宿させてもらいながら、美術研究所の講習会に参加しました。
大学は一浪して愛知芸大に行ったんですけど、一浪してるときも福井さんにはずいぶんお世話になって、芸大に入ったあと、福井さんが主催していた『からなし・そさえて』というグループ展にも参加させてもらうようになりました。

ジャコメッティへの敬慕と表現の模索

本格的に大学で彫刻を学ばれたわけですね。学生のころは、どういう彫刻を彫っていたのですか。

当時は、ジャコメッティの影響をものすごく受けていましたね。というのも、福井さんがジャコメッティに傾倒されていて、『からなし・そさえて』の展覧会のときに合宿して夜通し酒を飲みながら、よく議論していたんです。いろいろ話を聞かせてもらってるうちに、私もジャコメッティの魅力にハマってしまって。彼について書かれた本は、ほとんどぜんぶ読みました。「なんであんな表現になるんやろ」って、ジャコメッティの意識をつかみたくて、いろいろ試行錯誤しながら創作してました。

ジャコメッティの作品は、たしかに不思議なものが多いです。

彼の作品で鼻の長い作品なんかもありますよね。あれは、実際、人間いうのはパッと見たときに全体を見てないということを表現してるんです。ジャコメッティは『見えるものを見えるとおりにつくる』と言ってるんですが、つまり、人は見てるつもりでも、細かく分析していくと見てない。それを彼は『鼻の先を見たときにはその付け根はサハラ砂漠のように広い』って表現しています。

言われてみれば、ある部分は見ていても、それ以外は見えていないことはよくあります。子供は特にそうで、幼い子供の描いた絵は、顔だけが大きかったり、口や目が大きかったりと、特定のものだけが異様なかたちで描かれていることもよくあります。

私もそれに近いところがあって、たとえば移動しているときの瞬間的な場面というのは、その瞬間を切り取ったときに、後ろの足や頭は消えていくように見えなくなる。頭の欠けた作品があるんですけど、あれはそういう意味なんですよ。見えてないんです。人が歩いてる作品も、棒のように頭がなかったりする。それは、その瞬間を捉えたときに頭は見えてないってことです。だから、時間の経緯というのも作品のなかに写し込みつつ、周りの空間も削り出すんです。

空間を削る。かなり哲学的ですが、それはどういうことでしょう。

つまり、ジャコメッティは物質であるモノに意識を集中しますが、私の場合はモノじゃなしに、ない方の空間を意識するんです。空間を削り出すというんでしょうか。存在しないところに存在させていく、という感じです。
浮き上がらせるというより、感じさせる。だから見る人の力も要求すると思います。
日本の文化というのは俳句でもなんでも、行為もふくめて見えてる部分は一部分であって、あとは感じたり読み取るというものがほとんどでしょう? 俳句も、ほんの一瞬を切り取ったりするものですし。私は彫刻でそれをやってるんです。

なるほど、水のないところに水を感じさせるという、禅の庭の枯山水のようなイメージですね。ジャコメッティの特徴的な作品の理由もわかりました。大学を卒業したあとも創作は続けられたのですか。

はい。大学を出てからは鋳物屋さんに就職して、仕事が終わって帰宅したあと7時すぎくらいから創作していました。福井さんが『人の倍は仕事せなあかん』『おんなじように生きてたら何もできん』って言われてたんでね。だから体もフラフラでしたけど、毎日仕事場に入って作品作りをしてました。

鋳物屋さんに就職されたのですね。

はい。自分の創作にも役立つやろうと思ったからです。当時はまだ、具象彫刻や裸婦とかいろんな彫刻をブロンズにされるブロンズ作家さんが結構いらっしゃったから、彫刻をブロンズにするという仕事があったんです。だから、鋳物の仕事で技術を身につければ、自分の彫刻をやりながらでも食うには困らんだろうと思ったわけですよ。
ところが就職して10年くらい経ったころ、鋳物の仕事がだんだん減ってきて、月給制でボーナスもきちんと支払われていたのが、そのうち見込み生産みたいな仕事ばっかりで収入も減ってしまって。時間がもったいなから、それやったら自分の仕事をしたいと思って、日給にしてくださいって言って、日給月給にしてもらったんです。自分の作品を作りますって。
まあ、収入は減りましたけど、その分、創作の時間ができたのはよかったですね。

作為を消すということ

彫刻家として本格的に活動されたのは、その頃ですか。

いいえ、まだそんな段階ではなかったですね。仕事がどんどんなくなって時間ができたときに、弟が「そんなに時間があるんやったらお寺行ったら」って勧めてくれて、大徳寺の龍光院に通うようになりました。
弟は「土樂窯」で有名な伊賀焼の福森雅武さんの工房で修行を積んでいて、そのときはもう独立していたんですけどね。福森さんは父の友人で、幼いころから家族ぐるみの付き合いがあったんですよ。その福森さんのお嬢さんの福森道歩さんが大徳寺の龍光院で住み込み見習いをしていたそうで、道歩さんの紹介で「欠伸会」という勉強会に参加させてもらえることになったんです。

僧侶や仏像の作品が生まれたのも、お寺に通われていたことと関係があるのでしょうか。

大いにあります。当時は時間があったんでね。勉強会とは別にお寺の手伝いもしょっちゅうしていて、ときどき泊まり込みで手伝うこともありました。そうこうするうちに、寺の什物の修復なども頼まれるようになって、そこでいろんな仕事をさせてもらいました。
そうやって何年もお寺と関わっていくうちに、今のようなお坊さんの姿のようなもの、禅の空気のあるものを作りたい、自分のもんに反映さしていきたいって思うようになったんです。

その当時の作品と今とでは違いはありますか。

当時は円空的なもの、バサッバサッと一気に、瞬間的に切り取っていくような、一刀の鑿に込めていくというような彫り方をしていました。今よりもっと素朴な感じだったかもしれません。今もその作品が好きで「この頃のがいい」とおっしゃる方がいらっしゃいますけど、それはもう、その時にしか作れないものなんでね、同じものは作れません。瞬間瞬間を切り取っていくもんですから。
そうやって作った作品を福森さんが気に入って買ってくれはって、ずっと床の間に飾ってくれてたんですよ。『これええよな』って。そうか、これでええんやって思って、こっちの方向に行くようになったんです。福森さんにはずっと、今でもそのようにして育ててもらってます。初めて父と一緒に名古屋の百貨店で展覧会を開いたのも、福森さんの紹介でした。

ジャコメッティの作品に影響を受けていたときと、今のような作品を作るようになってからでは、心持ちに変化はありましたか。

ぜんぜんちがいますね。禅寺では「我を消して向こうに合わせていく」という修行をとことんするんです。結局それはモノ作りも同じことで、自分が何かを求めてモノを作るには、自分というものを消し去りながら向こうに従うことを第一にするしかない。モノを作ることと、自分を消し去るということは相反するように思えるけど、実はそうではないんですよ。完全にそうじゃないとわたしは思ってます。
でもこれはね、モデリングのブロンズではムリなんですよ。禅を立体的に取り入れるというときには完全に合わない。作為を消して行かなあかんから。ブロンズは自分の頭にこうというのがないとできないでしょ? 禅の場合は、まずそこから離れて行かなあかんのでね。

ちなみに、どんなブロンズを作っていたのですか。

猫とか子供の姿とか、身近にあるもんですね。蝋を手びねりでモデリングして作り、それをそのままブロンズにしてました。
ぜんぜん売れなかったです(笑)。めちゃくちゃ手間かけて、費用も相当かけてるのに、ちっとも売れへん(笑)。円空風に作ったのとは、手間もかかった費用も大違いです。作為があった、いうことでしょうね。
だから、今思えば福森さんにああ言われて作風を変えていったのがよかったんですね。

材料になる木や石は、どうやって手に入れるのですか。

材料はほとんど自然にあるものを使っています。古材は寺の修復などで出たもので、知り合いの庭師さんや大工さんが「使ってくれ」って持ってきてくれるんですよ。出先でいいものがあれば拾ってくることもありますけど、今はいろんな人からいただくことが多いです。

執着を手放して見えてくるもの

作品作りで気をつけていること、岸野さんにとって重要だと思うことはなんですか。

僕にとって重要なことは、出来上がる作品よりも、それをしている行為です。なにかを感じ取ってそこに向かっていく。向かってそれを行っている、彫刻しているモノと一体になる、という感覚。そこが大事なんですよ。禅の世界では「無理会(むりえ)」という言葉があるんですが、それは「理会」を超越した世界、理性的判断の届かない次元、そこのところに向かって作品を作ろうとするんです。

無理会ですか。

はい。それは寶林禅寺の西村古珠和尚様から教えて頂いたことなんです。和尚様は2年前にご病気で他界されたのですが、最期までこの無理会に向かって、坐禅しながら亡くなられました。本当に格好のいい方でしたよ。

彫刻しているモノと一体になるという感覚は、なんとなくわかる気がします。なにかに夢中になっているときは、そういう感覚がありますよね。

そうなんです。無心になるってそういうことやと思います。それは私にとって坐禅をしているのと同じことなんですけどね。だから、そういう状態になるためにもモノから何かを感じとる時間がいる。材料が手に入ったからといって、すぐに創作に入るというわけにはいかないんです。しばらく材料と一緒にいて、何かを感じた時に彫り始める。ずっと眺めていると、そういう瞬間があるんですよ。朝の散歩中にも、鳥とか見ていると、ふっと浮かんでくる時がある。これまでの自分の経験と同化させていったときに見えてくるものがある。そうなったときに彫っていくんです。

作品で黒くなっているところがありますよね。あれは何で色をつけているのですか。

あれは煤なんですよ。囲炉裏の上の天井の梁は黒くなるでしょう? あの原理を応用して、煤で色をつけてます。というのも、古材というのは色がバラバラなんでね、そうしないと自然には見えないんですよ。自分が彫ったものをより明確にするためには、ちょっと色をつけてないと見にくい。あくまで自然の持っている色を消さないように、それぞれの色を生かしながら、より自分の思いをわかりやすくするための手段として、煤で色をつけるんです。

岸野さんの作品は、静謐な中にユーモアと孤独が同居しているように思います。

やっぱり人間ていうのは生まれるのも一人ですし、死ぬのも一人ですしね。孤独を感じさせる理由は、おそらく、「死」はいつも隣り合わせだという意識があるからだと思います。生と死は隣り合わせにあって、「死」いうもんが、いっつも側にあると感じる。「死」というものを意識するようになったのは、兄の病気と、そのあとに姉が長いこと患っていた喘息で44歳で亡くなったことが原因だと思います。

禅の世界に入ったのは、そのことがあったからですか。

いいえ、禅の世界に入ったのは自分から進んでというより、たまたまそういう状況になったからです。ただ、兄と姉のことはかなりショックでしたね。そのことがあって「死」を意識するようになりましたし、生きていくってどういうことなんやろ、っていろいろ考えました。

禅の世界を知る前と後とでは、何か変化はありましたか。

ずいぶん変わりましたよ。いろんな執着から解放されました。作品も出来てしまったら、手が離れますしね。
私ね、制作するのがすごく楽しいんですよ。ほんとに楽しい。生きることそのものが楽しくて、作品づくりも含めて、執着から離れて楽々悠々で生きていられるのが今は本当に嬉しいですし、普段から生きることを楽しんでます。

そういう気持ちが自然と作品に表れているから、見る人によっては慰められたり癒されたりするんでしょうね。

そうだと嬉しいですね。作品に関しては感じてもらえる人に感じてもらう、というのが私の基本姿勢です。

 

※創作に関することなど、岸野承氏について、さらに詳しい記事を「美し人」でご紹介しています。

https://www.umashi-bito.or.jp/artist/622

(写真上から、『坐(檜)』+水墨画:岸野忠孝『塔』、彫刻の道具、『羅漢(宝林寺・樫)』、『鳥(流木松、富士山杉、柿、大徳寺銅板)』、『坐(翌檜、京都京北の神社材)』、『坐(興福寺・梅)』+水墨画:岸野忠孝『山』、『堂中羅漢(法輪寺樫、岸野寛作陶台)』)

(取材・文/神谷真理子)


 
 
 

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