メンターとしての中国古典
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紺碧の将

天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず

2020.05.31

「天地人」で有名なこの一節は孟子に記されものです。

その意味は、天の与える好機も土地の有利な条件には及ばず、土地の有利な条件も民心の和合には及ばない。もう少し解釈を進めると、チャンスがあっても、地力がなければチャンスを掴めない。地力があっても一人ではなにもできない。周りの人との信頼関係があり協力があって始めて大きな成果が得られる。戦争でなくても、ビジネスにも通じる成功の方程式と言えるでしょうか。

 

変化はチャンス

 

 天の時とは、チャンスが訪れたことを意味しますが、鴨がネギを背負ってやって来るようなことばかりではありません。大事なことは環境変化をどう受け止めるかで、チャンスになるかピンチになるかが決まるということです。変化を嫌えばピンチやリスクになります。一見ピンチに見えたとしても、状況を受け入れ前向きに捉えればチャンスにすることもできます。つまり、視野が広く思考が柔軟で発想の転換が出来れば、いくらでもチャンスは広がると言うことになります。

 例えば、新型コロナウイルスの流行は大きなピンチで、我々の生活や仕事に支障を来しています。これは紛れもない事実ですが、大切なことはこれからをどう考えるかです。この大きな衝撃は政治経済に社会、そして生活様式の時代遅れになった部分を浮き彫りにしています。旧態依然としたものがぶち壊され、社会や産業の新陳代謝を促進するでしょう。同時に変化への対応の中で新しい芽が生まれ、素晴らしいモノやサービスが次々と創造されていくでしょう。

 

地の利は「持ち味」

 

 地の利とは、立地や地位などのハード面に人や組織の持つ個性やノウハウなどソフト面を加えた有形無形の強み・持ち味を指すでしょう。ビジネスで言うなら、ヒト・モノ・カネ・情報・ネットワークなど経営資源の質や量の大きさが地の利となるでしょう。老子は「足るを知る者は富む」と説いていますが、ないものを嘆かず、個人や組織の持つ資産の価値をしっかりと見出すことがチャンスを活かすことになります。

 また、天の時により地の利が変化することを見逃してはなりません。このたびのコロナ禍においては、人口の多さ、アクセスの良さ、情報の多さなどで有利なポジションにあった都市部で感染被害が大きくなっています。そんな中、世の中はこれまでの集中化から分散化へと舵を切ることになるでしょう。在宅勤務やテレワークが進めば、満員電車に乗って都心に通勤しなくてもよくなります。自然の多い郊外の自宅で、空間的にも時間的にも余裕がある豊かな生活を手に入れることができます。大都市の優位性が薄れ、地方都市や田舎の地の利が高まっていくことになるでしょう。

 

人の和は「信」から

 

 

 人の和の元となるのは、信頼関係でしょう。ピンチでも皆が一致団結して対応すれば、多くの困難も克服できます。いくら能力の高い人でも自己中心的で私利私欲にまみれていては、良い結果は得られません。

 では、信用や信頼はどうすれば手に入れられるのか。それは嘘がなく誠実で、優れた人間性を養う以外にないでしょう。論語や孟子の儒教では、仁義礼智信の五常の徳というものを説いています。仁義礼智を実践すれば「信」がついてくると言うのです。

 

四端

 

 孟子の思想の特徴は、仁義礼智は人間が持って産まれた優れた特性だと説いていることです。

 ――人間には誰でも「四端(したん)」が存在する。四端とは「四つの端緒」という意味で、それは「惻隠」(困っている人を見ていたたまれなく思う心・慈しむ心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいことと間違っていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達する。

 人間は学んで努力することによって自分の中にある四端をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような立派な人物になれる可能性があると主張しています。

 

性善説と性悪説

 

 孟子の思想を深く理解するために、性善説と性悪説に触れておきましょう。

 孟子は人間の本性として四端があると考えていて、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在である。そのため学問(人間性を高める勉強であって、知識を増やす現代の学校教育とは異なる)をして努力する必要があるのだと説きます。

 一方、性悪説を説いた荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀などを後天的に身につけることによって徳を身につけることができると説きます。

 両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身につけると説く点では同じで、「人間の持つ可能性への信頼」が根底にあります。ただ、両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって人間性が高まり、組織や社会がよくなるという人間中心主義なのに対し、荀子は社会に制度やルール、罰則で人を統制しなければ、人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにあります。

 

王道と覇道

 

 さらに、性善説を主張した孟子は、王道政治を目指しました。王道とは仁義礼智信の徳によって仁政(民の幸福を第一に考え、弱者へ慈愛を持って政治をする)ことで、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになると言う思想です。

 一方、覇道とは権力・武力・経済力によって国民を従属させ、表向きは仁政かのように振舞っている政治です。国民はリーダーや政治、社会への信頼ではなく、権力者への恐怖あるいはそこから得られる利益によって、忠誠を演じているのです。かつての大英帝国、大日本帝国、第三帝国(ナチス・ドイツ)などのように帝国主義と呼ばれる政治は、覇権を争い武力による領土拡大を志向し、相手国民は言うに及ばず自国民の命までも蔑ろにした覇道の典型です。現代でも表向きは民主主義を名乗りながら、資金力と武力を行使しながら、覇道の政治をしている国が少なくありません。

 王道と覇道は国家や政治の形であるだけでなく、企業経営についても当てはまります。社員の幸福を第一に考え、自主性や創造性を尊重し一人ひとりの持ち味を活かす経営もあれば、利益至上主義で金を基軸とした管理システムで社員を統制するブラック経営もあります。経営理念には立派なことを掲げながら、自ら反故にしてるのは残念なことです。

 

 王道の経営は、言うは易しく行うは難いものではありますが、覇道の経営ではあまりにも悲しいです。これからの経営は孟子の説く「四端・性善説・王道」を基軸にして行くことで、最大の経営資源である人材が活かされ、明るい未来が創られると信じています。

 

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