メンターとしての中国古典
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紺碧の将

天網恢恢疎にして漏らさず

2022.09.25

 天網恢恢疎にして漏らさず 。これは老子の一説で、「天の網の目は広く大きく粗いようだが、天は良いことも悪いことも決して見逃さない」。つまり人は騙せても天は騙せない。天は厳正で悪事をなしたものは早晩必ず天罰を受ける。そんな自戒を促す言葉です。

 

 原文を見ていきたいと思います。

 敢えてするに勇なれば則(すなわ)ち殺され、敢えてせざるに勇なれば則ち活かさる。この両者、或(ある)いは利あり、或いは害あり。天の悪(にくむ)む所、孰(たれ)かその故を知らん。是(これ)を以もって聖人すら猶(なお)之(これ)を難(かたし)とす。

 天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来たし、繟然(せんぜん)として善く謀る。

天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして漏らさず(失せず)。

 

 その意味は、以下となります。

 勇猛果敢に物事を行えば、人を殺し自分も殺される危険がある。用心深く慎重に勇気を持って踏みとどまれば、相手も自分も活かすことができる。この二種類の勇気の違いは、一方は利をもたらし、一方は害をもたらす。天の憎むところは何か、それをよく知っている者はいない。従って「道」を治める聖人ですら、このことを難しいと捉え軽く扱わない。

「道」は、争わずに勝利し、言葉を用いずによく対応し、呼びよせずに自ら来させ、ゆったりとしながらよくよく考えられている。

 天の網の目は広く大きく粗いようだが、天は良いことも悪いことも決して見逃さない。

 

天罰への期待

 

 我々は日常生活でも、「お天道様が見ている」「天罰が下る」という言葉を使います。つまり、悪いことをしたら、人に気付かれなくても天は見ているから逃げられないよ。何よりも当事者である自分が見ているから逃れられないよと。

 では、悪いこととは何か?

 一般的に悪とは、人に迷惑をかけ、損害を与え、危害を加えることでしょう。

 今、地球上で起こっている悪について考えてみると以下のようなことが頭に浮かびます。

 まず、国益を叫び戦争を仕掛けて、多くの人の日常生活や命を奪う国家の指導者の行い。政治家や大企業経営者など大きな権力を持った人間が私利私欲で行う不正や隠蔽、加えて権力を使って罪を逃れようとする行為。もう少し身近なところでは、立場を利用したハラスメントによる人権侵害。このような法的あるいは倫理的に問題のある行為が、毎日世間を賑わせています。

 特に、社会の模範となるべき地位にある人間の犯す悪事は嘆かわしいことですし、社会的にも大きな影響を持ちます。法を制定し税を配分する権力を国民から委託された政治家の不正は社会秩序を崩壊させ、真面目に税を納める国民への冒涜と言えるでしょう。また、経営の中枢にいる人間の不正や不祥事は、社員や取引先に対する裏切り行為であり、プライドやモチベーションを打ち砕く行為です。これらは謝って罰金を払って済む問題ではありません。これらの行為は失望や諦め感を国民や社員に与え、日本の社会や経済の停滞の大きな要因になっていると思います。

 そんな無力感を感じる中、社会的に力のない一般国民からすれば、天が罰してくれることを期待するしかありません。しかし、天に代わって隠された問題を露わにする役割を、「マスゴミ」と揶揄されるマスコミに依存している部分が少なからずあることで、何ともやるせない気分になります。

 

活かされない古典の教え

 

 中国古典にはこのような問題を予防する戒めの言葉がたくさんありますが、思いつくところをピックアップしてみました。

「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(論語)

 立派な人は公の利益を考えるが、つまらない人間は自分の利益を考える。

「恥無きを之れ恥ずれば、恥無し」(孟子)

 自分は恥じるところがないという傲慢な心を恥じれば、人として恥ずかしいことはない。

「過って改めざる、これを過ちという」(論語)

 人は誰でも過ちは犯すが、すぐに改めず常態化することこそが本当の過ちである。

「その意を誠にするとは自ら欺くなきなり。君子は必ず独りを慎む、小人閑居して不善をなす」(大学)

 自分の真心や志に嘘をついてはならない。立派な人は周囲に人がいなくても身を正すが、つまらない人間は周囲に人がいないと悪事を働く。

「功成りて名遂げて身退くは天の道なり」(老子)

 功績を上げて地位や名誉を得たら後進にその座を譲るのが正しい選択である。地位や権力、お金に固執すると晩節を汚すことになる。

「大道廃れて仁義あり。知恵出でて大偽あり」(老子)

 道のような無欲な生き方を失い世の中が乱れるから、道徳道徳と叫ぶのだ。そしてそこに知恵が加わると大きな嘘や悪が生まれる。

 

老子の説く理想の行き方

 

 では、老子はどんな生き方を推奨しているのか。老子の思想の根本は「道」にあります。道とは母や谷のようにすべてを受け入れる大きな器であり、万物を生み出し、万物に恵みを与える。しかし、一言も発さず、何の見返りも求めない、無為にして静かだけれどもすべてをうまく行かせる力を持った存在である。

 こんな生き方を理想とするならば、「天網恢恢疎にして漏らさず」の如く天の力が働き、物事がうまくいく。また市中の山居、つまり都会の喧騒の中で暮らしていても、心は山の庵にいるように静寂を保っている。道のような心で過ごしていれば、天罰を受けることなく幸せな人生を送れるだろう。

 

「人間性」を戦略の核に据える

 

 社会的に高い地位につく人は、何らかの高い能力を持っていますが、人として正しい判断ができるかどうかは別です。どの道を選ぶかの判断は、利益の有無のみならず、人間性や価値観によるところが大きいと思います。

 生き残るためには手段を選べない、道徳では飯は食って行けない、という世界もあるのかもしれません。しかし、信用や信頼なくしてこの世の中は成り立ちません。利益やお金が幅を利かせる時代には、寧ろ人間性を第一に考え行動する少数派が存在感を高め、大きな影響力を持つのではないでしょうか。だからこそ、「人として恥じなし」という美学を組織や人の戦略の核(コアコンピタンス:競争優位の源泉)に位置づけていくべきではないでしょうか。

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