禅の世界では、人に頼めないことはみんな遊びの対象と考えます。
久方ぶりに、玄侑宗久さんの言葉をひとつ。「ちからのある言葉」というより、力が抜ける言葉かもしれない。禅僧であり小説家でもある玄侑さんにそう言われると、なるほどねぇと深く納得。著書『まわりみち極楽論』から抜粋した。力を抜いて、「ちから」を入れるもの悪くない。
遊びというと、子供の遊ぶ姿が思い出される。
駆け回ったり、歌ったり踊ったり、お絵描きしたり、泥だらけになって遊ぶ姿。
とにかく楽しいことに目がなくて、どんなことも遊びに変えてしまう。
子供は遊びの天才。
ご飯を食べては遊び、トイレに行っては遊び、お風呂で遊び、
手伝いをしては遊び、勉強しているふりして遊んだりする。
大人には思いもよらない遊び方で。
子供の遊びには「こうしなきゃいけない」という制限がない。
ああでもいいし、こうでもいいし、こんなんでもいい。
面白いかどうか、楽しいかどうか。
それが重要。
だから考える。
どうやったら楽しくなるか。
どうやったら面白くなるか。
玄侑氏の言葉を借りるなら、
子供の世界は禅の世界。
「例えば食事、トイレなどは人に頼めないですよね。代わりに食べておいて。代わりにトイレに行ってきてって、無理でしょ。だから大事な遊びなんですね。遊びは自然に工夫しちゃうものですし、その工夫も楽しいものですよね」
家事も仕事も勉強も、日常には人に頼めないことはたくさんある。
自分がやらねばどうしようもないということが。
それでも楽しむ。
それを楽しむ。
するといつか、創意工夫なくしていられなくなる。
どうすれば楽しくなるだろう、と考えずにはいられなくなる。
日々是好日は、自分自身でつくるもの。
一行三昧、遊戯三昧。
創意で遊び、工夫で遊び、日々即好日になってゆく。
今回は、「あわい」を紹介。
間と書いて「あわい」。古典読みなら「あはひ」。音の響きからでしょうか。「あいだ」と読むより、やわらかい感じがしませんか。続きは……。
(200319 第625回)