自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり
曹洞宗の祖師、道元の言葉だ。『正法眼蔵』の第一巻「現成公案」にある。道元自身が悟りを得た境地を表した言葉のようだ。宋に渡った道元が、帰国を目前にして手に入れた悟りの境地。それは、「心身脱落」であった。
「仏教においては、だれもがもともと仏性をもち、そのままで仏なのだと教えているのに、なぜわたしたちは仏になるために修行をしなければならないのか」
道元は、この疑問に対する答えを求めるべく、宋に渡った。
なんのために修行をするのか。
なんのために参禅するのか。
道元は悩み続けた。
修行も参禅も、僧侶にとれば当たり前のこと。
その当たり前が、道元には不思議でならなかったのだろう。
答えは、ひょんなところから降ってきた。
「参禅はすべからく心身脱落なるべし。只管に打睡して恁麼(いんも)を為すに堪えんや」
(参禅することは心身脱落のため。それなのに、おまえはひたすら居眠りばかりしておる!そんなことで参禅の目的が果たせるか!)
坐禅中に居眠りをしていた雲水を叱った如浄禅師の言葉によって、道元は開眼する。
すべては「心身脱落」のためなのだ、と。
心身脱落とは、言い換えれば、自我を捨てて「そのものになりきる」ということだろうか。
座ることになりきる、僧になりきる。
「なりきる」ことが、心身脱落なのだと道元は悟った。
「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
自分から悟りの世界へ近づいて行こうとするのは迷いである。悟りの世界のほうからの働きかけがあってはじめて心身脱落し、悟りの世界に溶け込むことができる。
あれがほしい、これがほしいと求めてばかりいるときほど、得るものは多くない。
むしろ、求めていたことを忘れたり、あきらめたり、意識から離れたときに、必要であれば向こうから求めたものはやってくる。
「ま、いっか」
そうやって、かたくなに縛り付けているものを手放してみよう。
ゆるゆると心がほぐれてゆき、閉ざされていた扉が開いて光が差し込んでくるにちがいない。
(190124 第507回)