なんでもないものにこそ神は宿る
歌人という言葉は聞くことが多いが、花人という言葉にはあまり馴染みがない。
生け花をする人である。一般的には華道家、あるいは現代的にフラワーアーティストと名乗る人も多い。が、川瀬敏郎はまごうかたなき花人である(「かじん」ではなく「はなびと」と読みたい)。
川瀬が活けた花が清楚な美しさに満ちているのは、よく見慣れた花に宿る神性を表現しているからだ、と思う。「どうだ!」という押しつけがましさ、仰々しさがない。それでいて伝統に反逆しているわけではない。
花を活けるという行為をたどっていくと、古来、この国の人たちが山河(自然)をどう見ていたかに行き着く。私たちの祖先はそれらに神を見出し、奉るために花を活けた。
川瀬は、どこにでも咲いているような花々を活ける。「野辺の花が神になる」とも語っているが、私たちが「雑草」とみなして目にとめない花をかくも美しく、神々しく活ける人は彼をおいてほかに知らない。
そのような世界観は、人間にも通ずる。名をなした人だけが尊いのではない。この世に生まれてきたすべての人に神が宿っているはずである。問題はそれを活かす生き方をしているかどうか。まずは、自分にも神は宿っていると自覚することから始まる。
そういえば、彫刻家・須田悦弘氏はしばしば野辺の植物を彫る。彼もまた「なんでもないもの」に神を見出す花人だといえる。
(250507 第878回)
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