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紺碧の将
Interview Blog Vol.102

おもしろいイベントを企画して、日本と海外の橋渡しをしていきたい。

フリーランスプロデューサー岡部宇洋さん

2020.07.10

結婚式のプロデュースや町おこしの企画・イベントの総合プロデュースなどの地方創生にも関わり、海外への日本茶の普及など多岐にわたって活動する傍ら、南品川にあるカフェ「茶箱」のオーナーを務める岡部宇洋さん。自分でも未だ本業がわからないと豪快に笑う彼は、特定の肩書きを持たず、旺盛な好奇心とフットワークの軽さで国内外を行き来しながら自らの可能性を切り拓いていらっしゃいます。パワフルでアグレッシブ、かつ誠実な行動の源泉と、今後の目標を語っていただきました。

イベント好きが高じてフリーのプロデューサーへ

結婚式や町おこし、店舗のプロデュースを手がける傍ら、カフェのオーナーも務める岡部さんですが、そのようなフリースタイルの働き方は今でこそ多くみられますが、岡部さんはいつからそういう働き方をされているのですか。

 5、6年ほど前でしょうか。勤めていた会社を辞めた後にアルバイトをしていた企業でWebサイトを作ったことが発端です。それまでWEBなんて作ったことなかったのに、知人にWEBに詳しい人がいるから僕が作りますと請け負いました。それ以降、ウェブサイトやロゴマーク、映像、ブランディングなど、クリエイティブな仕事をしています。

それをすべてお一人でされるのですか。

 それぞれ専門の人に振り分けます。僕はプロデューサー兼ディレクターですね。周りにはプロのデザイナーや映像クリエイターなどの仲間がいますから、基本的にどんな仕事も請けられます。

独立する前は何をされていたのですか。

 大成建設の環境部署で広告企画をやっていました。都心に森林を作るプロジェクト、除染の技術、スマートエネルギーなど、環境を開発するための最新技術の展示会やパンフレット等の企画広告作りです。もともとイベントを企画するのが好きで、学生時代から学祭などのイベントは率先してやっていましたし、まわりを巻き込みながら場を盛り上げるのが得意なんですよ。だから、結婚式の二次会を企画してほしいと友人から頼まれたときも、二つ返事でOKしました。

それはいつのことですか。

 会社を辞める少し前くらいでしょうか。一次会はプロのプランナーが企画するから、その流れで二次会をプランニングしてほしいと。そのプランナーというのが日本でトップクラスの人で、彼女に「あなたは福顔だから結婚式のプロデュースが向いている」と言われてから、休日だけ仕事を手伝うようになりました。すると、こだわりのあるカップルから結婚式の企画を頼まれることがちらほら出てきたんです。企画の評判がよく、そのうち仕事として請け負うようになりました。

町おこしというのは、どういうことをするのですか。

 ひとつは行政の仕事で、「空き家再生プロジェクト」です。エリアリノベーションといって、1軒だけをリノベーションするんじゃなく、地域まとめてリノベーションし街の風景を変えようという取り組みです。1軒だけよりエリア全体がリノベーションされているほうが集客力が高いということもわかっています。以前、僕は北海道でこの取り組みをしたことがあるのですが、今は富山でチームを組んでやっています。

もうひとつの町おこしというのは何ですか。

 静岡県掛川市での、お茶をテーマにした町おこしです。これはカフェ「茶箱」をオープンするきっかけにもなっているのですが、2017年に始まった「かけがわ茶エンナーレ」というお茶のアートフェスティバルに関わったことがきっかけです。日本茶を広く世界に広めようと掛川市と共同でお茶のイベントを国内外で企画したり、僕自身、単独でも海外でイベントを開いています。静岡は僕の出身地でもありますし、何かに導かれているような気がして(笑)。

光と陰の学生時代

ご出身は静岡なんですね。昔からそういった社会的な活動に興味があったのですか。

 具体的に興味を持ち始めたのは大学院生のころからです。高校までは静岡で、大学で東京に出てきて、大学院は北海道大学です。イベント好き、お祭り好きは昔からで、中学、高校は学校行事と部活動に熱中していました。陸上部に所属し、中学のときは静岡で1位。高校でもケガなどで不調の時期にハードなトレーニングからソフトなトレーニングに変えて県で2位になりました。
 ただ、大学受験を目前にした秋の芸術鑑賞で演劇を観てから演劇の虜になってしまい、それからは演劇しか考えられなくなって受験勉強どころではなくなりましたね。

そうなると、大学進学も危ういですね。

 結局、浪人することにしました。いきなり演劇の道に進みたいと言っても、当然親は反対ですよね。でも僕としては気持ちが収まらなくて、とりあえず浪人を決めたけど浪人中は散々でした。翌年に合格はしたもののすべてに身が入らず、僕にとって大学時代がいちばんもがき苦しんだ辛い時期でした。

それまでの岡部さんとくらべると意外ですね。

 予兆みたいなものはあったんです。陸上部で怪我をしてから不調になったこともそのひとつで、そのときにそれまでとは違う境地に至ったというか…。たとえば、それまではハードなトレーニングで筋肉を増強することが大事だと思っていましたが、体と会話して筋肉を緩める、内面の世界を見つめることが大切だと気づきました。それに気づいてから、タイムもぐんと良くなりました。
 それと、高校3年の終わりに一人でニューヨークに行って演劇を観て回ったことも理由のひとつかもしれません。それが一人旅の始まりです。

たとえばどんな場所へ行かれたのですか。

 大学の春休みや夏休みを利用して、タイやインドなどに1、2ヶ月間滞在しました。大学時代で20カ国くらい行ったでしょうか。ただそれも、やり場のない思いをただ旅で埋め合わせているような感じだったので、楽しかったかというと、そうではなかったです。NGOでも働きましたが響いてくるものがなかった。ただ一日一日が過ぎて行くだけで、なんのために海外に来ているんだろうと、無為に過ごしているような虚しさがありました。クリエイティブななにかをしたいという思いが、ずっとあったんですよね。

 とにかく、大学時代はしんどかった。3年のころからは徐々に人との関わりを断つようになり、自分の殻に閉じこもって、鬱っぽい状態でした。

そこからどうやって脱却されたのですか。

 東京から離れようと思いました。このままここにいてはダメだと。実は子供の頃、馬の調教師に憧れて北海道の大学に行こうと本気で考えていて、それで北海道大学の大学院に進むことを決めたんです。人との関わりを絶ちはじめたころに「野口整体」と出会ったことがきっかけで、そのことに思い至りました。もちろん調教師になろうと思ったわけじゃないですよ(笑)。
野口整体と出会ったのも、陸上を通して体を向き合うことを覚えたからで、身体的な違和感は体を通してしか解消できないということに気づきました。そのためには環境を変える必要があると思ったんです。

大学3年生でその境地に至るとは驚きです。悟りの一種ですね。

 それくらい苦しくて必死だったんです(笑)。それともうひとつ、一般の企業には就職したくなかったんです。当時は悩んでいたこともあって、社会に意義のあることをしなきゃという強迫観念があり、ボランティアで政治家の事務所で働いたこともありました。そのときに出会ったのがソーシャルビジネスで、「これなら僕は働ける」と思いました。社会的価値があり、それを事業にするということに自分の可能性のようなものを見出したのです。

身体の声を聴きながら可能性を広げてゆく

今は社会起業家と言われる人が増えましたね。

 当時はまだ走りのようなもので、少しずつ関連本が出始めたころだったんです。北海道にはそのような起業家が何人かいて、彼らは最初から社会起業家になるつもりはなく、「この問題を解決するためには事業にしなければ」と必要に迫られてのことだったようです。NPOでは限界があったと。
 北海道に憧れもあるし理想の起業家もいる、社会企業も勉強したい。東京を離れるチャンスでした。

実際に行ってどうでしたか。

 楽しかったです。あの2年間は充実していましたね。社会起業家を全国から集めるというイベントを企画したり、実際に自分で地方に行ってプロジェクトを起こしたり、社会起業家の手伝いをしたり。
 中でも院生1年の冬は大きな出来事が2つありました。ひとつは国際会議への参加。コペンハーゲンで開催された「COP15」という環境会議に学生代表で出席したことです。コペンハーゲンに行って、あまりに街がきれいで驚きました。古いものと現代のものがうまく融合していて、心底感動しました。そのときから街の景色を変えたり、街をデザインしていくことに興味が出てきました。
 もうひとつは、韓国で開催された、東アジアのリーダーを育てるというプログラムに参加したことです。ちょうど静岡の県知事に川勝平太さんが就任した頃で、彼が「これからは文化や芸術が重要になる」と言って「真善美」を説いた話が強く印象に残っていました。

「真善美」もこれまでとは違ってくるということですか。

「真」は正しいか間違っているか。「善」は良いか悪いか。これまでの世界はこういう価値観で動いてきました。しかし、これからは「美」の時代が来ると川勝さんはおっしゃった。カントも「真」「善」があって、最後に「美」の時代が来ると言っています。
 僕はその「真善美」の「美」の部分に共感し、自分も「美」という価値観を築けるソーシャルビジネスや街づくりなどに携わりたいと強く思ったんです。

それが現在の活動につながるわけですね。大学院を卒業したあとは就職されたのですか。

 そのまま北海道に残って起業するという選択肢もあったのですが、一度は大きな企業に就職してみたらどうかという周りからのアドバイスと、海外への強い憧れがあって大成建設に就職しました。入社後、すぐに海外研修がありましたが、一人旅やNGOでの体験が活きたようです。それでも僕の中ではまだ何かが燻っていました。

会社を辞めたのは、その燻りが原因ですか。

 環境部での広告企画は自分に合っていて、すごく楽しかったんです。学祭っぽくて(笑)。でも、佐渡ヶ島の「鼓童」に出会ってしまったんですよ。

鼓童というのは有名な太鼓集団ですよね。

 それを見て「これだ!」と(笑)。演劇以上に自分に合っていると思い、すぐにでも入りたいと研究所を訪ねました。結局、年齢制限でアウトでしたが、自分が求めていたもの、美や日本文化、街づくりのことを思い出したら会社を辞めることにまったく後悔はありませんでした。

岡部さんは茶道も嗜んでいらっしゃいますね。それはいつからですか。

 会社を辞める前、鼓童と出会ったのと同じころです。大成建設のあるパーティーで茶人の目黒公久さんと知り合い、彼の教室に体験に行ったのがきっかけです。「野口整体」が禅や茶とも通じていることもあって、まったく違和感がありませんでした。その後、目黒さんと海外でお茶を披露する話が持ち上がって、実際に海外でお茶を披露したこともあります。
 会社を辞める直前に「Tea of the Men」を立ち上げたのも、その流れです。デザイナー、映像制作、茶道家、パフォーマーなどクリエイターの集まりで、国内外問わずゲリラで茶会を催します。当時のメンバーは4人、今は活動するのは僕だけで、他は随時メンバーが入れ替わっています。目黒さんは名前だけ残っています(笑)。

何ごとにも全力な岡部さんですが、その溢れるエネルギーを今後どう活かしていこうと考えていますか。

 僕はエネルギーを持て余しちゃう方なので、それを上手く抜きながら、街づくりもお茶の普及にも力を入れていきたいと思っています。今以上に海外での仕事も広げていきたいですし、そのためにも、もっとエネルギーの正しい使い方を覚えたいですね。それを「野口整体」で学んでいるところです。
 納得のいく仕事をするためにも自分の体を100%使い切れる状態にしておきたい。野口整体では10年で作られた体のバランスを整えるには最低でも3倍はかかると言われていて、そう考えると、今はまだ30%くらいしか使いきれていません。

パフォーマンスを良くするために身体を整えるというのは、本質的だと思います。

 いろいろ悩んだことで僕は自分の限界を知ることができました。だから自分では出来ないことは出来る人にどんどん頼みます。最近は勝手に人が集まってくるんですよ。「あいつのところに行けば仕事がある」って(笑)。
 これからは海外の人たちとも連携をとって、おもしろいことをやっていきたいですね。

(取材・文/神谷真理子)

Information

【茶箱】

〒140-0004 東京都品川区南品川2丁目11−5

HP:https://www.facebook.com/cha8ko/

 

【Tea of the Men】

WEB : teaofthemen.jp

 

 

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