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Interview Blog vol.80

伝統工芸の町に育てられた恩を、身につけた伝統技術で返したい

蒔絵師松山武司さん

2019.07.10

1981年に会津塗を抜いて全国一の生産量になった山中漆。その山中漆器で知られる石川県山中市は、木地師や塗師、蒔絵師などがひしめき合う職人の町。伝統が息づくこの町で生まれ育ち、蒔絵師として活躍する松山武司さんは、蒔絵の道に足を踏み入れて39年。ベテラン蒔絵職人として自らの技術を磨く一方、町の伝統の保全にも余念がありません。

父とは違う蒔絵師になる

この時期は雨が多くて、蒔絵の仕事に影響はありませんか。

ありますね。漆は、他の塗料と違って湿気が多いと逆に乾き過ぎてしまうんです。ですから、梅雨時は気をつけないと乾きが早くて漆が縮んでしまいます。反対に冬は乾きが遅いのです。漆は湿度調整が一番気を使うところなんです。

松山さんの作品は、美しい螺鈿模様が特徴ですね。

私が得意とするのは、螺鈿模様に欠かせない青貝を小さく砕いて、ガラスの破片を合わせるかのように一つひとつ貼り付けていくものです。細かい作業はもともと好きで、苦労と思ったことはないですね。

ひとつの作品が仕上がるまでに、どれくらいの日数を要するのですか。

蒔絵は基本的に、仕上がりまで5つの工程があります。まず、漆で絵を描き、金(銀)粉を蒔き込みます。その後、透漆(すきうるし)といって金粉を固めるために水分を飛ばした漆をその上から塗って固めます。次に、研炭(とぎずみ)で研いで磨き上げる。そして、菜種油と砥粉(とのこ)を合わせたものを布につけてこする。これを胴刷(どうずり)といい、この時にある程度の傷をとります。胴刷の後、生漆を塗り込んで終了。あとは、早朝、湿気のあるところに半乾きになるまで置いておきます。仕上げに、菜種油を手につけて粉をまぶして手で磨く。すべての工程が終わるまで、簡単なものでも二週間はかかります。ただ、季節や天気によって、作業日数は変わります。

そんなに工程があるとは知りませんでした。山中は伝統工芸の町というだけあって、街全体に漆や木材の香りがします。職人さんも多いですね。

そうですね。山中漆器は歴史的にも古いですから、代々家業を引き継いでいる人が多いです。私の父も蒔絵職人でしたけれど、かといって、家業を継いだわけではないんですよ。

最初から独立されたのですか。

はい。もともと蒔絵師になるつもりはなくて、高校生の頃は美容師に憧れていました。しかし、進路を決めるときに、歳をとって美容師をしている自分が想像できなかったんです。手に職を持ちたいと思っていましたから、じゃあどうしようと考えたとき、自然と蒔絵師になることを決意しました。

最初は父親の後を継ごうと思われたわけですね。

いいえ。最初から家業を継ぐつもりはありませんでした。というのも、父の世代はちょうど高度経済成長のまっただなかで、新しいシルクスクリーン技術を取り入れて量産することが最先端だと思っていたんです。ですから、当時は職人の多くが量産に走って伝統的な技法から遠ざかり、漆器なのに本物の漆を使わないということが当然のように行われていたんです。父もそうでした。それを見て「何か違う」と。どんなに綺麗に仕上がったものを見ても、本物の漆器とは思えない。だから、蒔絵師は志しても、父とは違う道を行こうと思っていました。

弟子入りから5年、独立へ

蒔絵師のところに修業に出られたのですね。

はい。近所の蒔絵師に住み込みで弟子入りしました。兄弟子が2人。師弟関係は厳しいだろうと覚悟していたのですが、弟子入りして3日ほどで兄弟子から「筆、持ってみる?」と筆を渡されてびっくりしました。おそらく2、3年は持てないだろうと思っていましたから、まさかそんなに早く筆を持てるとは想像もしていませんでした。

初めて筆を持った気持ちはどうでしたか。

いやあ、緊張しましたよ。肩はガチガチに固まって、手が震えました。「大変なものを目指してしまった」と思いましたね(笑)。でも、もう後には引けません。この道でやっていくんだと、気が引き締まりました。

どれくらい修業されたのですか。

そこは徒弟制度でしたから、数年後には出て行くことが決まっていました。それだけに必死でした。掃除や後片付けから始まり、塗師から届く漆器にゴミや指紋がないかをひたすら検品する。少しずつ蒔絵を描かせてもらえるようになっても、特別絵が上手かったわけではなく、技術の習得には苦労しました。ただ、モノづくりはもともと嫌いじゃないですし、手先は器用だと思います。おかげさまで、なんとか5年後には独立できました。

独立するということは、当然、経営もしていかなければいけないのですよね。

そうです。独立するということは、こんなに大変だったんだと思い知りました。今までは師匠のところに来る仕事をこなせばよかったのが、独立したら当然仕事も自分で取ってこないといけない。待っていても仕事はきませんからね。自分の足で営業する必要がありました。ただ、師匠のところにいたときに5点ほど作品を作っていたので、すぐに営業回りができた点は良かったです。

職人の町だけに、独立してすぐの営業は大変ではなかったですか。

幸い、妻が以前アルバイトをしていた漆器店から注文があって助かりました。修業中も住み込みでしたし、徒弟制度ということで小遣いもいただけましたから、食べていくのには困らなかったです。収入面よりも、技術面に苦心しました。

というと?

5年間、自分なりに腕を磨いてきたと思っていましたが、営業するようになって、上には上がいることをあらためて実感したんですよ。当然と言えば当然なんですが、危機感を覚えました。なんとかしないといけない。もう一回、一から学び直さないといけないと思い、時間の許す限り個展に見に通ったり、貪るように美術書や古書を開きました。見るたび感嘆しましたね。素晴らしい作品を目の当たりにすると、自分も描いてみたいという思いにかられます。

伝統工芸の新しいかたち

技術の研鑽に励む中で、転機となる出来事はありましたか。

独立から7年後に、山中漆器蒔絵組合の傘下である「研究開発委員会」にいた兄弟子から「山中塗研究会」に入らないかと誘われて入会したことですね。関係機関との交流が始まり顔を覚えてもらったことで、鼈甲(べっこう)職人との共同作業という新しい仕事に結びつく可能性をいただくことができました。

共同作業というと、どういう仕事ですか。

鼈甲のアクセサリーに蒔絵を描く仕事です。この仕事は、私に新しい境地を切り拓いてくれました。伝統蒔絵にこだわりすぎて、そこから抜け出せずに悩んでいた時期だったんです。蒔絵は漆器だけのものじゃないんだと、肩の力が抜けました。それからですね。蒔絵を描くことを自由に楽しめるようになったのは。

すぐ販売につながったのですか。

とりあえず仕上げた作品を鼈甲細工の本場である長崎に持ち込みました。ほとんど相手にされませんでしたが、鼈甲細工の職人の一人が「すばらしい」と言って、メーカーに紹介してくれたんです。結果、鼈甲と蒔絵のコラボレーションというこれまでにない商品を生み出すことができました。20代最後の大仕事でした。

それ以外にも、新しいチャレンジはありましたか。

モチーフを伝統柄からモダン柄に変えてみました。バラやアロワナ、ヒョウ柄、オリエンタル柄も好きでよく描きます。オリエンタル柄は結構人気があるんですよ。

尾形光琳の『八橋蒔絵螺鈿硯箱』に似せたものや、生木に鳥獣戯画のワンシーンを模写した作品もありますね。

はい。いろいろ試してみたくなるんです。伝統工芸はこうでないといけない、という枠を取り払わないと新しい作品は生まれません。私自身、人があまりやっていないことをするのが好きなんです。伝統を受け継ぎつつも、ちょっと変わったことをやってみたいと思っています。

伝統工芸は、なかなか売れないと聞きます。現状はいかがですか。

そのとおりです。山中も伝統の町とは言われていますが、このままでは衰退の一途を辿るだけという厳しい現状があります。私たち職人も、町をあげて伝統工芸を守ろうと努力していますが、なかなか難しいですね。だからこそ、もっと魅力ある作品を生み出していかなければという危機感は常にあります。

現状を踏まえ、ご自身と町全体とに、どのような状態を願いますか。

自分自身としては、人生一度しかないですから、一つに絞るのではなく、これもできるけど、こっちもできるというように、いろんなことに挑戦したいと思っています。ただ、最近は自分のこと以上に山中の将来を考えます。
私は山中塗の歴史と伝統に育てられました。だから、こんどは私が山中に恩返しをする番です。未熟な私を育ててくれた山中がこれからもずっと繁栄し、若い作家たちが希望を持ってこの地で漆器に取り組んでいけるよう盛り上げていきたいと思っています。

Information

【漆工房 T.M Japan Art Studio】

〒922−0275

石川県加賀市別所町富士見ヶ丘11-4-1

TEL:0761-77-0301

FAX:0761-77-0362

E-mail:tm-jas@mail2.kabacable.ne.jp

 

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