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本物の真髄(電子版)
Interview Blog Vol.126

自分の感性に正直に生きたい。それを表現する手段の一つが絵。

画家黒田さかえさん

2022.02.07

 

子供の頃から画家を目指した黒田さかえさん。明るく積極的な性格が人を引き寄せ、人生を彩り豊かなものにしています。いろいろな選択肢がある中でなぜ画家を選んだのか、どんな人生を歩んできたのか、お話を伺いました。

画家を目指して

画家を夢見たのはいつ頃ですか。

小学6年生の頃です。卒業文集の「将来の夢は?」に対して、「立派な絵描きになりたい」と書いていました。ちょうどその頃、札幌オリンピックが開催されていて、フィギュアスケートの選手になりたいと思ったこともあります(笑)。母に反対され、あきらめましたが。

好奇心旺盛ですね。

良くいえば好奇心旺盛、悪くいえば落ち着きがないと言われていました(笑)。とにかく興味を持ったことはやってみる、という性格です。特にモノを作ることが大好きで、よく紙粘土で人形を作ったり服を作ったりしていました。

いろいろなことに興味を持てたのは、生まれ育った環境も大きいですか。

両親とも芸術が好きで文化的な教育に熱心でした。曽祖父は京都芸術大学の植物学の教師をやっていたそうです。叔父さんは二科展の絵描でしたから、思い返すと芸術一家ですね。叔父さんのアトリエに遊びに行った時に油絵を知りました。

身近にお手本となるような方がたくさんいたのですね。

はい。私の子供時代は、戦後、空襲で両親も家も亡くした親戚の子供や身寄りのない大人がうちに住んでいたこともありました。祖母は産院や託児所を営んでいて、父は中学校の教師をしながら地域の子供や大人を集めて、小さい児童劇団もやっていましたから、家にいろいろな方が出入りしていたのです。そのような環境で育ったおかげで、物怖じしない性格になりました。

今では考えられないような経験をされたのですね。黒田さんは生まれも育ちも京都ですか。

はい、かつては西陣織が盛んで千両ヶ辻と言われる地域です。若旦那さんがいっぱいいて、一日で千両が飛ぶと言われるように賑やかでしたよ。高度経済成長期には、高いビルもどんどん建って周りは銀行だらけでした。

街並みや生活環境が変わっていく中で、黒田さんの興味の対象は変わっていきましたか。

根本は変わっていないですよ。絵を描くことだけでなく幼い頃から体を動かすことも好きで、よく運動もしていました。お琴を習っていたこともあり、楽器も好きです。

好きなことがたくさんある中で、叔父さんのアトリエに行ったことが絵描を目指した大きなきっかけですか。

それもきっかけの一つですが、いわさきちひろさんの絵が大好きなんです。父に買ってもらって、それを見ながらよく真似して書いていましたよ。いつも通知表は美術だけ5でした(笑)。

高校卒業後は、どのように絵を勉強されたのですか。

受験期は予備校に通っていたので、本格的に絵の勉強を始めたのはその頃です。毎日刺激的で楽しかったことを覚えています。講師や美大の卒業生など他府県からいろいろな人が集まり、もっと視野を広げるために東京の大学に行かなければいけないと思わされました。結局2年浪人しましたが志望校には受からず、嵯峨美術短期大学に入学しました。

2年浪人されて納得のいく結果ではなかったと思いますが、どう乗り越えましたか。

母から、「嵯峨美術短期大学で一番になればええやん」と言ってもらえたことで気が楽になりました。寝食も忘れ絵を描くことに没頭していましたから、私の性格ではどこかで壊れると思ったのでしょうね。

大学生活はいかがでしたか。

絵が描けるだけで満足でしたから、一番になろうという気持ちよりも技術を習得したいという一心でした。授業が終わった後も遅くまで残って絵を描いていましたね。

自分の絵のスタイルを築きあげたのはいつ頃からでしょうか。

短期大学は2年で卒業なのですが、もう2年間、専攻科に通っていた頃です。版画や銅版画、古典技法、油彩テンペラ混合技法などさまざまな授業があるのですが、一番しっくりきたのはテンペラ混合技法でした。

テンペラ混合技法とは何ですか。

顔料を卵と混ぜた絵の具を用いる技法のことです。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」はとても有名ですよね。昔は宗教画によく使われていましたよ。卵を溶いて作っているため伸びが悪く、ぼかすことに向いていないなど技法の限度がありますが、乾くのが早くすぐに塗り重ねていくことができ、描線や色彩がきれいに出ます。

なぜ自分に合っていると思ったのですか。

自分が表現したい絵には、油絵の具は濃く、水彩絵の具は少し物足りないなと思っていて、ソースと醤油の中間くらいのものを求めていたのですが、テンペラがまさにそれでした。ちょうど、油絵や日本画、テンペラ画にも使える画期的なアクリル絵の具が出てきましたが、乾きが早いため自分の描くペースに合わず、テンペラ混合技法を追求したいと思いました。

それに気づいてからは、大学の勉強では物足りなかったのではないですか。

最初は本を読んで見よう見まねで描いていましたが、絵の具が剥離してしまってなかなかうまくいかなかったんです。試行錯誤していた時、茨城県でテンペラ画の夏期講習があると聞いて参加しました。ドイツ人の先生だったのですが、そこに先生の別荘があったんです。1ヶ月泊まり込みで勉強しました。

テンペラ混合技法を習得し、表現したかったものはなんですか。

自分の中のいろいろな感情ですね。楽しい、幸せ、憧れ、といったポジティブなものから、寂しいといったネガティブな感情も。

外から受けるインスピレーションはありますか。

ありますよ。子供の頃から人が好きですから、いろいろな人と接する中でこの人おもしろいと思ったら、取り入れてみることはよくしています。あとはヨーロッパがずっと憧れで、自分の根っこの部分は「和」なんだけど「洋」の部分もあって、憧れの感情を描くときは洋風だったりします。でも昔から周りと同じことをするのが好きではなく、「自分はこうしたい」という気持ちが強い性格でした。外からというよりは自分の内からくるものを描くことが好きですね。頑固なんです(笑)。

好奇心旺盛で、いろいろな人と話したり物を見たりしたからこそ、自分の中からアイディアが出てくるのですね。黒田さんは人物画が多いですか。

そうですね。癖が強そうな女の子を描くことが好きなんですが、それは自分の中の一人でもあります(笑)。いつまでも少女のように自分に正直にいたいという気持ちがありますから。

ヨーロッパはどこの国が憧れですか。

24歳で大学を卒業した後は、本当はウィーンへ留学に行きたかったんです。これも母に反対され、行けなかったのですが……。留学はあきらめましたが、その後あるグループ展覧会で仲良くなった人とヨーロッパ旅行に行くことになったんです。ウィーン、マドリッド、パリ、ロンドンに友達が住んでいたので、2ヶ月半かけて周りました。28歳の時です。

なぜウィーンに留学したかったのですか。

ウィーン幻想派の絵が好きだったんです。ブリューゲルの「バベルの塔」やクリムトの「接吻」は有名ですよね。東欧の画家が描く絵が素敵で、自分の目で見たかったんです。知らないものを見るとワクワクしたり、心が動きますよね。

一番思い出に残っている出来事はなんですか。

安上がりの旅行でしたからリュックサックだけ背負って、ホテルも予約せず友達の知り合いのアパートに無料で泊めさせてもらいました。その辺で買ったパンを食べながらワインを飲んだりと、たくさん思い出がありますよ。

ヨーロッパは、ただ歩いているだけでもワクワクしますよね。

まさに街自体が芸術でした。ヨーロッパ旅行の目的は美術館巡りでしたから、スペインのプラド美術館、パリのルーブル美術館、イタリアのウフィツィ美術館、ロンドンの大英博物館など毎日足がクタクタになるまで歩きましたね。ウィーンは史跡名勝がたくさんあって、マリー・アントワネットのシェーンブル宮殿やワインの産地を巡りしました。

素敵な出会いがたくさんありそうですね。

芸術作品との出会いはもちろんですが、ニースからマドリッドへ向かう夜行列車で出会った日本人がいました。たった2日間しか一緒にいなかったのに今でも交流がありますよ。一人は東京で通訳の仕事をしていて、もうひと組はルクセンブルクにケーキの修業に来ていて、一緒にサグラダ・ファミリアを見に行ったんです(笑)。人との出会いにも恵まれた旅でした。

黒田さんのオープンな性格だからこそできた縁ですね。

異国で日本人に会う嬉しさもありましたし、お互い刺激にもなりました。

日本に戻られてからは、黒田さんのお気持ちに変化はありましたか。

気持ちも身体もフル充電が出来て制作意欲がすごく湧いてきました。帰国してから開いた個展で私の絵を気に入ってくれた人がいたのですが、その人は大阪で画商をしていて、どんどん売ってくれたんです。それがきっかけで、関西だけでなく東京のギャラリーからも声が掛かるようになりました。

ヨーロッパへ行く前より、多くの人に知ってもらえたのではないですか。

でも「こういう絵を描いたら売れるから」という話が多くなって、自分の描きたい絵がなかなか描けなくなった時は嫌々描いていましたね。その感情が、絵にも現れていたと思います。

人気が出る一方で、葛藤もあったのですね。

はい。バブル崩壊もあって、その仕事とは疎遠になってしまったのですが。その後、当時京都に新しくオープンしたギャラリーと契約することができたのですが、そこは無料で展示させてもらえるところでした。画商がいれば、飾り付けや案内状の送付、会場当番などやってくれるのですが、無料の個展になるので全部自分でやらなければいけなかったんです。大変でしたが、自分が好きな絵を描いて展示できる喜びはありました。

どのような経路で、京都のギャラリーから声がかかったんですか。

全部人との縁ですね。ヨーロッパから帰国後、頻繁に個展をやっていたおかげで、直接のつながりはないけれど誰かを介して仕事の依頼が来ることもたくさんありました。私は運がいいなと思うことが多々あります。

それからの活動は関西が多いですか。

一時期は京都での活動が増えましたが、40代後半になった頃、東京に進出したいと思うようになりました。それまでは、京都の三条木屋町で毎年個展をやっていたのですが、その個展がきっかけでさらに仕事が増えました。地元が京都なので友達も見に来てくれ、そのつながりでお客さんが増えたり、立地も良いのでふらっと立ち寄る人も多く、たくさんの人に見てもらえるきっかけをくれたギャラリーで、とても感謝しています。

関西だけでは物足りなくなったのですね。

東京の個展で自分の絵が扱われたこともありましたが、次は自分が選んだギャラリーに、自分で絵を売り込みにいきたかったんです。

どこのギャラリーに営業に行かれたのですか。

銀座1丁目にある柴田悦子画廊です。

なぜそこのギャラリーが良かったのですか。

他にもいろいろなギャラリーを見ましたが、オーナーの人となりに惹かれました。とてもハートウォームで、日本画家を世に出したいという気持ちから始めたギャラリーだそうです。

 

営業に行ったからといって、すぐに扱ってくれるものでもないですよね。

個展のDMを柴田さんに送っていました。印象に残っていたみたいで、初めて会った時にすぐ気づいてくれましたよ。いきなり訪ねるよりも、まずは自分の絵を見てもらう機会を作っておいた方が、話はスムーズですよね。あとは直接会ってみて、フィーリングが合うかどうかではないですか。

また一つ夢を叶えたわけですが、今後はどのような活動をしていきたいですか。

ちょうど東京進出を考えていた頃、絵を教えてほしいと個別で依頼があったんです。その人は友達の友達で私の個展に来てくれていたそうで、友達経由で話をもらいました。正直人に教えるなんて考えてもいなかったのですが、いざやってみると楽しかったんですよね。最初は個別教室でしたが、最終的に7、8人に増えました。

今でも絵画教室はやっているんですか。

はい。子供、大人、あとは成安造形大学の非常勤として大学生に教えています。

活動の幅が広がっていったんですね。

大学での講師は今年で14年目になりますが、年々病んでいる学生が多いように感じます。私は話すことが大好きなので学生とコミュニケーションを取ることも楽しいのですが、あまり人と話したくないと言われることもありました。ネット社会の影響なのかな、と。人間はいくつになっても、時代が変わっても、手や頭を動かして人とコミュニケーションを取らないといけないと思っています。もちろん、学生から元気をもらったり、勤勉な姿を見て刺激を受けたりすることもありますよ。

人とのつながりからチャンスを広げてきた黒田さんにとっては、絵以外の部分でも伝えたいことが多いのではないですか。

人との縁を大事にした方がいいと伝えたいですね、すべての始まりは出会いですから。それに、前に出る性格が功を奏したと思ったことはたくさんあります。個人でやっている人は特にですが、どれだけの人に自分のやっていることを知ってもらえているかはすごく大事なことだと思います。誰かのふとした会話の中から生まれる仕事もありますし。

蒔いた種が忘れた頃に花が開くこともありますね。

今年の3月、広島にある「スーリヴェール」というギャラリーで個展を開いてもらうのですが、それも不思議な縁から生まれたものです。私は絵画だけではなく銅版画もやっていて、10年ほど前に銅版画を扱ってくれていた画商がいたのですが全国に取引をしてくれていました。スーリヴェールもリピーターのお客さんの一つでした。実は7、8年ほど介護で忙しかったのですが、落ち着いてそろそろ新しくスタートしないとな、と思っていた去年の春頃、突然スーリヴェールのオーナーから電話がかかってきたのです。

タイミングの良さも黒田さんの引き寄せ力ですね。

タイミングが少し早かったら、介護が忙しく断っていたかもしれません。介護に入る前、洋裁教室に通っていたことがあるのですが、先生が結婚して広島に引っ越して行きました。ある時、その先生がスーリヴェールに行ったところ、私の版画が飾ってあるのを見て驚いたそうです。オーナーは私の作品を気に入ってくださっていたようで、洋裁教室の先生を通して私の作品を扱いたいと直接連絡をいただきました。しばらく個展からは遠ざかっていたので迷いましたが、また別の地域で自分の作品を知ってもらえるチャンスかなと思い、個展を開いてもらうことにしたのです。

多趣味が功を奏したのですね。

大人から始めるバレエ教室へも通っているのですが、音楽に合わせて体で表現できるところが、絵とはまた違ったクリエイティブな楽しさがあります。姿勢もよくなりましたし、健康にもいいですよね。コロナが落ち着いたらまたヨーロッパへ旅行に行きたいなと思っています。多趣味の人生は楽しいですよ。

 

 

絵だけでなく、好奇心旺盛でいろいろな分野に精通している黒田さんの話を聞くのはとても勉強になりました。楽しい時間をありがとうございました。

(取材・文/髙久美優)

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