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紺碧の将
Interview Blog vol.127

可能性を捉える眼、旺盛な意欲と行動力で未来を切り拓く開拓者精神で前に進む。

株式会社システムデザインワークス、 株式会社レビテイト、那須ボルダー計画株式会社 代表取締役社長田代寿樹さん

2022.02.21

 

栃木県那須塩原市でシステム開発会社の株式会社システムデザインワークス、スイスのシューズブランド「on」を筆頭にスポーツ用品・アパレル用品の企画販売をする会社の株式会社レビテイト、 那須塩原を米国コロラド州ボルダーのような街にすることを目的とした事業を行う那須ボルダー計画株式会社の3社をそれぞれ経営する田代さん。

業種の違う3社を経営しながらも「まだまだやりたいことはあるんです」と言います。見据える先にあるのは多くの可能性と大きな未来。そのバイタリティの源流はどこから来るのでしょうか。

3社の経営者として

普段はどのようなお仕事をしていますか。

経営している3社のマネジメント業務ですね。基本的に各社はそれぞれ副社長に任せていますが、僕はその方向性や流れをチェックしています。大きな判断や決定は僕に委ねられますし、その3社以外でも企画や新事業を計画してまとめたり、先のことも常に考えて動いていますから、やることは多いです。

確かに3社もあると業務全体を任せられる人が必要ですね。

従業員が1人入社した段階で「僕がいなくても会社が存続できるように僕の動きや思考をコピーしてくれ」とずっと言い続けています。だからそれを理解してそのように動いてくれる副社長に安心して業務を任せられるんです。

起業して経営者となることはずっと目標だったのでしょうか。子供の頃になりたかった職業などはありましたか。

社長になりたいとか具体的にこの職業に就きたいなどの夢は持っていませんでした。ただ今思えば、リーダーや経営者の素質はあったのかもしれません。大学では軽音サークルに所属していました。サークルから部活動に昇格するためには、それにふさわしい団体だと認めてもらう必要があります。

僕は毎日学校のゴミ拾いをし、他にも人がやりたがらないことを率先して引き受けました。結果、1年間で部活動に昇格して部費が出るようになりました。そこから部員が増えていき大きくなっていく流れは、どこか会社経営と似ているなと思うんです。

出る杭は打たれる

大学卒業後から起業までの道のり、大変気になります。まずはどこかに就職をされたのでしょうか。

大学卒業後はパチンコ屋の店員になりました。上司が厳しい人で接客はずいぶん鍛えられましたよ。それを学べたまではよかったけれど、最後は嫌がらせを受ける形で辞めることになりました。

それは穏やかではありませんね。具体的にお聞きしてもよいでしょうか。

職場をよくするために頑張りたい気持ちがあり、そのためにやれることは全力でやろうとしました。

ところがそんな人間を煙たがる職場環境で、余計なことはしなくていいと言わんばかりに抑え込まれてしまうんです。よりよく働けるための改善をやらない理由がないと思いますが、それが許されなかった。理解ができませんでしたよ。

現場の人たちはルーティンが変化することを面倒に思ったんでしょうね。例えそれが改善であっても。

なぜ一般の会社でそんなことが起こるのか、疑問を持ちました。頑張る人が報われずに職場を去ってしまう。経営者からするとそういう人材はダイヤモンドの原石のようなものです。

結局、そんなことがまかり通る現場を会社のトップ層が見られていないからそういうことが起こってしまうんです。

そこを辞めたあとはどうされたんですか。

プログラマーになりました。入門編のような知識しかなく、最初はまったく通用しませんでした。でも努力して、3ヶ月である程度の仕事がこなせるようになりました。努力した分だけスキルも身につくし社内の評価も上がる職場でしたが、生活が成り立たないほど給料が安かった。子供もいましたからね……。

プログラマーの給料はこんなに安いのかと思っていましたが、聞くところによるとよそではそうでもないらしいんです。それで家族と生活を優先して、今度は大手のセキュリティ会社に入社しました。警備員の仕事は24時間勤務だけあって給料がいい、それだけの理由で転職しました。

大きな転機

生活と家族を優先して警備員になり、ここではじめて起業を意識しはじめたのでしょうか。どのようなきっかけがあったのかですか。

26歳で警備員になり、30歳で起業するまでの4年間。ここに起業までのすべてが詰まっていたと言っても過言ではありません。 給料は確かにいいんです。しかしここでも意味があるとは思えない独自の職場ルールがあり、それを守れと言われる。例えば記帳するのは赤いボールペンじゃなくて赤鉛筆じゃないと駄目だとかね(笑)。それに何の意味がありますか? 他にもいろいろありましたが、とにかく納得がいかない業務を一生続けるのは無理だと思いました。結局は会社の歯車にしかなれないであろう将来を考えたとき、自分に価値があるのかなとも思いました。

それで起業しようと考えたんです。有名な経営者の著書をたくさん読み、自分もその人たちの後に続くことを決意しました。

4年の間に起業に向けてどのような準備をしていったのでしょうか。

まずは近未来を逆算して計画し、行動を起こしました。会社を辞めてしまうとローンが組めなくなります。だから家と車は買っておこうと思いました。そのために仕事をがむしゃらに頑張り、出世して年収を上げようと計画しました。上司から言われたことは二つ返事でこなし、誰か休めば自分が何連勤になろうが全部代わりに入る。寝ないでも働く。やれることは率先して全部自分がやる。そうやって信用を得ていきました。おかげで家も車も買うことができました。

そして起業のスタートを決定づける大きな出来事がありました。社長や役員、社員700人を含めた会社全体で業務の改善案コンペがあり、1位になったんです。その結果、本社勤務に栄転が決定、高額の年収を会社から提示されました。そこで僕は「退職します」と会社に伝え、辞めました。

その会社ではまさに昇り詰めた状態。成功が約束されたわけではない起業という選択より、普通は会社からの提示を受け入れてしまうのではないでしょうか。しかし田代さんはあえてその時に辞める決断をした。思わずかっこいいという言葉が漏れてしまいました(笑)。

本社からエリートコースを進めと言われたことで自信がついたんです。自分の価値を確認できたことですべての準備は整ったと思いました。だからこそ決断できたんです。未練はありませんでした。誰もが輝けて、働いていて楽しいと思えて、理不尽なルールに縛られない会社を作ろうと、それだけを目標にがむしゃらに頑張って来ましたから。

信頼を得るということ

それで起業をするわけですが、どんな事業をやるかは決まっていたんですか。

それが何をしていいのかわからなかったんですよ(笑)。起業を思い立った時から、時間を見つけては「1日1万円をどうやって稼ぐか」をテーマに毎日アイデアを書き続け、何ができるかをひたすら考えていました。その結果、ないんです(笑)。答えにたどり着けないまま退職届を出して、さてどうしよう状態でした。

とりあえずプログラマーの経験から、システム関連の仕事。あとは個人的にデザインも独学でいろいろ作っていた経験があり、それも仕事にできると思いました。それで初めての会社、システムデザインワークスを設立しました。

最初の仕事を取るのは大変ではありませんでしたか。

なんのアテもなく、顔が広いわけでもない。これまで営業なんてしたことがありませんでしたから、最初はどうしたらいいのかわかりませんでした。そんな時、退職した警備会社の社長から「会社の管理システムを構築してくれ」と依頼され、それが最初の仕事になりました。退職しても信頼関係を結べていたことがわかり、とても嬉しく思いました。

おかげで実績にもなりましたし、初めて自分で受注して仕事ができたことで自信もつきました。

警備会社から信頼され、気に入られていたことがよくわかるお話です。それからは順調でしたか。

次の仕事はラーメンチェーンのメニュー表のリニューアルでした。そのためにカメラを買い、家の水槽の蛍光灯をドラムセットのシンバルのスタンドにくくりつけて、その時できる最大限の努力で商品の写真を撮りました。その写真をチェーンの会長が大変気に入ってくれて、それがきっかけで社内業務システムの仕事までやらせてもらえることになりました。

当時このあたりではiPadで業務管理するシステムはまだ広まっていませんでしたが、僕はその情報をつかんでいて、独自に勉強していたんです。それを第一号で導入してもらったおかげで、これが噂を呼んでぜひウチにも導入させて欲しいと、全国的に広まっていったんです。それで仕事が増えていき、会社の社員も増えていきました。

警備会社時代、いずれ独立するのだから腰掛け的に日々過ごすのではなく、そこで努力して昇り詰めた人物だから退職後も会社との信頼関係があり仕事がもらえた。成功を収める人にはやはりそれだけの理由があるのだと感じました。

僕は人より優れたところがあるなんて思ってもいませんが、決断だけは早く、そしてたくさんの可能性を常に考えるようにしている。ただそれだけなんですよ。それだけをずっと変わらずにやっているだけなんです。起業のきっかけなんてやる気だけでいいんだなと思いました。

シューズブランド「on」との出会い

1つ目の会社を設立してから3年後、2つ目の会社、株式会社レビテイト(旧リバティウォーク)を立ち上げました。

株式会社レビテイトはスイスのシューズブランド「on(オン)」の代理店です。例えばスポーツ用品店ではナイキなどのブランド商品を仕入れてお店で販売しているでしょう。それと同じことなんですが、レビテイトはonというブランドに特化しているんです。日本で初めてのon専門店なんですよ。販売自体は他の店でもすでにされていましたが、専門店という形は初めてです。設立当初は当然ながらブランドの認知度はないに等しく、売上は上がりませんでしたが(笑)。

 

それでもonを選んだ、そこに着目したのはなぜだったのでしょうか。

僕はトライアスロンをやっていて、知り合いのトライアスリートがきっかけでonと出会いました。純粋に商品がすごくよかったんですよ。まずそこに可能性を感じました。もともと世界的にはすでに有名なブランドで、世界では成長率ナンバーワンのシューズブランドなんです。ただ日本がその波に追いついていなかっただけで、将来的には波が来るはずだと予感していました。

本当は2つ目の事業としてプログラミング教室を開講する予定だったんですよ。屋号をとって教室の内装も完成していましたが、全部中止して、onのお店に変えてしまいました。

そこまで準備してからの方向転換は思い切りましたね。それほどonの販売に可能性を感じたんですね。

プログラミング教室では受講人数の上限も決まっていて売上のてっぺんが簡単に見える。そのてっぺんからどうやって広げていくかを考えるとonのシューズが全国に広がる可能性の方が魅力的だと思いました。結果として今では全国に8店舗展開していますし、今ではレビテイトもon事業だけではなく、さらに壮大なスケールで展開できています。

さすがの着眼点ですね。

onの商品が素晴らしいから、そのおかげで自然と会社が発展しただけなんですけどね。ITの会社を始めたけれど僕自身はIT屋じゃないと思っていて、可能性を感じることはなんでもやりたい人間なんです。だから何屋にもなれる、なってもいいという考えが根本にあるんです。だからこそ日本では知る人が少ないブランドを最初に専門店販売することができました。

on販売において、今ではレビテイトが日本で2位の売上高を持っています。1位はとても大きいグループ企業ですが、でもいずれレビテイトが1位になると思ってやっていますよ。

街づくりという可能性

3つ目の会社、那須ボルダー計画株式会社についてお聞かせください。

カビキラーで有名なSCジョンソン社代表取締役の鷲津雅広さん、そしてその奥様であり全日本トライアスロン宮古島大会で5度の優勝を誇るトライアスリートでもある鷲津奈緒美さんとの出会いがきっかけで立ち上げた会社です。

那須塩原市をトレーニング地としている奈緒美さんが、那須塩原の環境はコロラド州のボルダーと似ていると言うんです。それならば那須塩原市もボルダーのような「健康な生活を愛する人」の集まる街にしてみたい。そんな思いを胸に、仲間5人で那須ボルダー計画がスタートしました。

壮大な事業です。まずは何から始めましたか。

街づくりの経験はありませんし、経験者が身近にいるわけでもありません。どうしようかを考えている時、雅広さんがイギリスのパブで壁に「地ビールを飲んで街づくりをしよう」というポスターを見たという話をしてくれました。なるほどこれならできると思いました。

那須塩原の地ビールを作って乾杯の一杯をこのビールにしてもらい、それで集まったお金は全部街づくりに投資しようと考えました。この事業に関わっている人たちはそれぞれ自分で会社を持っていて、お金には困っていないんです。あくまでも街づくりのために資金を集めて、新たな事業や施策に投資しようという流れが決まりました。

ということは地ビールも第一弾の事業にすぎないわけですね。

まったくもってそのとおりです。地ビールという手段を最初に選んだだけで、これから先はまだ未知の領域です。那須ガーデンアウトレット内にクラフトビールの醸造所、那須ガーデンブルワリー NASU de SUNA(なすですな)をオープンさせ、4種類のクラフトビールを販売しています。まずはこの地ビールを地元で定着させることが今年のフェーズかなと思っています。あとは地元の食材を使った食のマルシェやランニング・バイクステーションなどの施設を作ることも考えています。

健康な暮らしをしたい人々が那須に魅力を感じ、移住したい街・休日を過ごしたい街・全国ナンバーワンにする。さらに観光客をリピーターにして、将来的にリピーターに定住してもらうことも目的の一つです。

「街づくり」というものに意識が向いたのはやはり那須ボルダー計画との出会いからだったんですか。

それが違うんです。実は街づくりにはずっと以前から興味があり、起業当初からシムシティ(街づくりのシミュレーションゲーム)のような街づくりをしたいとずっと思っていたんです。理想の会社を作れるのなら、理想の街も作れるはず。その考えがあったから鷲津ご夫妻と共鳴したんですね。

この事業もやっとスタートラインに立ったところで、そのために僕がやる事業はもっともっと広がっていきます。今は3社を経営していますが、これから先はもっと数が増えていくでしょうね。

将来の展望、それこそ5年後や10年後のビジョンがありましたらお聞かせください。

街づくりを起点として動いているのが5年後かなと思いますが、今の時代、技術や流行りの移り変わりが早すぎて、10年先の想像はつきません。

僕自身はたくさんの事業に関わっていると思いますが、それこそ今の時点では想像もつかないような事業をやっているかもしれませんよね。それなのに10年後の自分がハッキリと見えてしまうんだとしたら、それはなんてスケールの小さい未来なんだと思ってしまうんです。だから想像できない未来のことよりも、今持っている可能性をひとつひとつ実現していくことが大切だと思い、これからも行動していこうと考えています。

 

(取材・文/村松隆太)

Information

【株式会社システムデザインワークス】

https://systemdesignworks.co.jp/

 

【株式会社レビテイト】

https://www.on-nasu.com/

 

【那須ボルダー計画株式会社】

https://nasu-boulder.co.jp/

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