メンターとしての中国古典
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紺碧の将

志のある士は利刃の如し、百邪辟易す

2021.07.06

志(自己ビジョン)の大切さ

 

 これは幕末の儒家の権威である佐藤一斎の「言志四録」の一節です。その意味は、聖人や賢人のような立派な生き方を学び実践しようと志す人は鋭利な刀と同じで、多くの邪なものが尻込みして退く。続きがあって、「志のなきの人は鈍刀の如し。童豪(どうもう)も侮翫(ぶかん)す」。その意味は、志のない人はなまくらな刀と同じく、子供のように道理に暗いものでさえも侮ってバカにする、ということです。志つまり自己ビジョンの有無がその人の人格、そして価値を決めるというのです。

 

志とは何か

 

 橋本左内は「啓発録」に、志についてこう書き記しています。

「志を立てるというのは、自分の心に向かい赴くところしっかりと決定し、一度こうと決心したからにはまっすぐにその方向を目指して、絶えずその決心を失わぬよう努力することである。ところで、この志というものは、書物を読んだことによって、大いに悟るところがあるとか、先生友人の教えによるとか、自分が困難にぶつかったり、発憤して奮い立ったりして、そこから立ち定まるものである。(中略)志を立てる上で注意すべきことは、目標に到達するまでの道筋を多くしないことである。それを一本に決定しておかなくては、まるで戸締りのない家の留守番をした時のように、盗人や犬が方々から忍び込み、とても自分一人では勤まらなくなる。(中略)物事を分別する力が少しでもついて来たら、まず自分自身で将来の目標、それを達成するための方法を、しっかりと考え定め、その上で先生の意見を聞いたり友人に相談するなどして、自分の力の及ばない部分を補ない、そして決定したところを一筋に心に刻み込んで、行動を起こさねばならない」

 要点は、しっかり学び決心すること、選択し集中すること、そして苦手なところは人の力を借りてでもしっかりと行動を起こすこと、だというのです。

 

志を立てるには

 

 では、いかにして志を立てればいいのか。佐藤一斎はこう記しています。

「学は立志より要なるは莫(な)し。而(しか)して立志も亦(また)之れを強ふるに非(あら)ず。只(た)だ本心の好む所に従ふのみ」

 その意味は、人として成長しようと学問をするには、目的を立ててこれを遂行しようと志すことが大切である。志を立てることも、外から強制するものではない。ただ、本心(持ち前の正しい心)の好むところに従うばかりである。

 つまり、人から言われてするのではなく、自分と向き合って自分の心と対話をすることで、答え(志)が見つかる。ですから、人に迷惑をかけるようなものでなければ、志には大小、正誤そして優劣はないと言えるでしょう。そして、立志は肝要であるが、これを実践に移して持続させる忍耐力も必要であることを忘れてはなりません。

 

志(ビジョン)を立てる5つの方法

 

 私は志(ビジョン)についていろんなケースを研究し、おおよそ5つの志を立てるパターンがあることがわかりましたので、ご紹介したいと思います。

 

1)理想・憧れ

 あんな人になりたい! そんな風になれたらいいな! 聖人賢人でなくても、両親や先輩の身近な人に憧れるでもいいと思います。スポーツの分野ではこのパターンが多いと思います。女子プロゴルフには有望な若手選手がたくさん登場していますが、彼女たちの憧れは世界ランキングナンバーワンになった宮里藍さんです。

2)好きで楽しい

 スポーツもそうでしょうし、音楽が好きでミュージシャンを目指す人、列車が好きで電鉄会社で働こうとする人、車の運転が好きでバス運転手を目指す人、ゲームが好きでゲーム開発プログラマーを目指す人などです。

3)理不尽な体験から

 例えば、身近な人が不治の病にかかって悲しい思いをした。そんな経験から人の命を救うという使命感を持って医師を志したり、薬の開発に取り組む人もおられる思います。

4)劣等感を反骨精神にして

 ある経営者の方は大学受験に失敗したという劣等感から、弱い心を鍛えるために飛び込み営業という厳しい世界に飛び込み、後に自分で会社を作った人がいます。

5)義憤

 義憤とは、社会や業界への憤りの心です。例えば、社会の問題を解決するために、弁護士や政治家を目指す。業界の問題を解決し改革するために、新たなビジネスモデルを創り出すケースなどです。例えば、SPA(アパレルの企画製造小売一体型のビジネスモデル)を作られたユニクロの柳井正社長などは代表例と言えるでしょう。

 

百邪とは

 

 百邪とはたくさんの邪な心ということでしょう。もう少し詳しく見てみると、

(1)下心、出来心など悪いことを考える心のこと

(2)穢れた心、汚れた心など純粋ではない心のこと

(3)不正や悪だくみなど道徳的・倫理的に誉められない心持ちのことです。

 いずれにしても自己中心的で人を傷つけたり被害を与えることを何とも思わないことです。

我々凡人には無欲な悟りの境地に入るのは容易ではなく、邪な心が芽生えるのも否めません。また、過失で人を傷つけることもあります。しかし、意図的な邪心は許されないでしょう。法務大臣が法律を犯したり、有名企業が30年以上にわたり、専用プログラムを使って組織的に不正をおこなっていました。それは自分の利益のために、国民やお客様、そして善良な心をもった社員の人間性を踏み躙る行為は、大臣にせよ社長にせよ辞職したからといって許されるものではないでしょう。

 

恥を知る

 

 表向きはコンプライアンス規定を定めても、ダブルスタンダードがあり裏では不正を許し、利益を追及する行為があとを絶ちません。第三者委員会を設置し、反省することは必要でしょうが、本質な解決にならないでしょう。

 ではどうすれば良いのか。その答えを佐藤一斎は示してくれています。

「志のある士は利刃の如し。百邪辟易す」

 つまり、利益を追う前に人として恥ずかしくない立派な生き方を学び実践しようとすれば、不正や改竄は予防できると。ドイツの法学者イェリネクは、「法は道徳の最低限」と言ったそうですが、法律より大事なのは「恥を知る」ことです。ビジネスマンはMBAの教材で学ぶことも大切と思いますが、同時にこの「言志四録」を手の届くところに置いておくことをお勧めいたします。

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