心とはいかなるものを言ふならん 墨絵に書きし松風の音
一休
頓智和尚で知られる「一休さん」こと一休禅師の言葉である。禅僧でありながら酒や魚を喰らい、色ごとにも盛んだった一休は、かなりアバンギャルドな坊さんだったようだ。僧らしからぬ破天荒な行動をとりつづけたのも、宗教の形骸化への反逆心ゆえのことだったのだろう。かえってそれが、禅の本質をついているようで好感を持つ。
人の心はわからない。
わからないけれど、たしかにある。
あるのだから、見ることも触れることも、掴むことだってできるはず。
ところが、心というものは、ころころと転がるものだから手に負えない。
手に負えないのは、心のゆくえを推し量れない鈍感さゆえか。
ときどき、風や匂いを感じる絵と出会うことがある。
描かれるはずもない風や匂いを感じるのは、絵と一体になったとき。
作者の心象風景に溶け込んだときだ。
見えないけれど、たしかにそこにあるもの。
聞こえないけれど、たしかにそこにある音。
ないものの中の、たしかな存在。
見えないものを見、聞こえないものを聞こうとする心があれば、ころころと転がる心のゆくえもわかるのではないか。
本来、われわれ日本人は、墨絵にかいた松風の音を聞くことができた民族。
自分や人の、見えない心を感じてみよう。
(180412 第421回)