おれは、自分の日常が遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることができるだろうか
『塩狩峠』より
北海道は旭川を拠点に作家活動を続けた小説家、三浦綾子の『塩狩峠』より抜粋した。
三浦自身、敬虔なクリスチャンということもあり、どの作品もキリスト教の教えが軸となっている。
この一文は、主人公が父親の遺言を知ったあとに思う心の内である。
「人間は、いつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。
ここにあらためて言い残すほどのことは、わたしにはない。
わたしの意志はすべて菊が承知している。
日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、
そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。
わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。
とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になるここと思う」
遺言の序文である。
毎日が遺言のごとき生き方をしているならば、それはもう、思い残すことはないだろう。
常に死を意識して生きることの、なんと尊く輝かしいことか。
この一瞬は、かけがえのない大切な時なのだとわかる。
残して逝く者は思う。
自分の人生、はたしてこれでよかったのか。
何を残していくのだろう、と。
残された者は、やがて気づく。
あの人が残してくれたものは、人生まるごとだったのだと。
(161216 第266回)