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紺碧の将
Interview Blog Vol.115

伝統的な花鳥画に、現代の空気を吹き込みたい。

日本画家 中野大輔さん

2021.05.06

 

いま、もっとも注目されている日本画家のひとり、中野大輔さんは、伝統的な花鳥画を題材にしながら、現代の息吹を感じさせます。いまの境地に至るまでの来し方を語っていただきました。

昼間は働くな、絵は売るな

中野さんは1974年のお生まれですね。その前の年に第1次オイルショックが起こり、日本経済は低成長へとシフトダウンしていく転換期にあたります。同級生のほとんどは企業に就職し、サラリーマンとなって定収入を得る道を選んでいたと思います。あらためてご自身の経歴をふりかえり、日本画家になるきっかけ、原点のようなものをどこかに見いだせますか。こう言っては失礼ですが、中野さんはどうしてまた、絵の道を選ばれたのですか。

将来、画家になりたいと思った直接的なきっかけは思い出せませんが、中学2年生のとき、美術の高校へ行こうと决めたことは覚えています。親類の何人かが銅駝美術工芸高校を卒業していたからです。その学校では、デッサンや色彩などの基礎をはじめ、グラフィック・デザイン、テキスタイル、映像、写真、からくり人形作り、漆、染色など、いろんなことを学ぶことができるんです。一週間のうち、同じ科目が重複しないほど、たくさんの科目がありました。

そこを卒業したあと、大阪のデザイン教育研究所へ進んだのですが、妻とはそのときに出会いました。ひとつ下で、卒業してからもグラフィック・デザインをやりながら、僕を支え続けてくれています。卒業を控えて進路を決めるとき、父親から、一度は就職したほうがいいと言われました。僕が美術の道を志していることは知っていましたが、とうてい絵で食べていけるとは思えないから、社会経験を積んでおいたほうがいいと考えたのだと思います。

それで、就職されたのですか。

いいえ、結局、絵の道に進むことにしました。サラリーマンになるという選択肢はありませんでした。じつは伯父が日本画家だったのです。伯父のように生きたいと思いました。書き溜めていたデッサンを伯父に見せると、油絵より日本画のほうが向いていると言われました。当時、伯父が師事していた日本画家がいました。僕よりちょうど60歳上なのですが、日本表現派の創立メンバーのひとりです。絵を描き始めて2年目、僕はその人にも師事することになりました。

僕にとっては大(おお)先生ということになりますが、初めて会った日のことは忘れられません。大先生の前に座って挨拶をしたのですが、10分以上なにも言わず、じーっと僕の顔を見ているんです。そして言わはったことは、「日中の仕事には就かんといてください。スケッチができなくなるから。当面、絵は売らんといてください。絵が悪くなるから」。それだけを聞いて帰ってきました(笑)。

日中、仕事をするな、絵は売るな、ではどうやって収入を得るのでしょう?

早朝と夜に仕事をするしかないですね。そこで、朝4時半から運送屋のバイトを始め、深夜のバイトも掛け持ちしましたが、数ヶ月続けたとき、このままでは体を壊すと思い、やむなく朝のバイトだけにしました。当然、収入が減るわけですから、生活費をギリギリまで切り詰めました。

画家を志したとき、あるていどの覚悟はされたと思いますが、途中で辞めようと思ったことはなかったのですか。

それはなかったですね。ただ、そういう生活を続けながら絵を描いたとして、いったいいつになったら芽が出るのか見当もつかないですから、焦りはありましたね。まわりの同年代の人たちとも比べてしまいますし。なんてことに挑戦してしまったんやろと思いましたが、辞めようと思ったことは一度もありませんでした。

師匠にはどんなことを教えられたのですか。

特になにを描けとは言われませんでした。自分でテーマを選び、何枚か溜まると持参して見てもらうということを繰り返していました。先生の前に手をついて、お願いしますと言って顔を上げると、すでに2枚くらいひっくり返っていることもありました(笑)。「これはダメや、ありがちや」と。何ヶ月もダメ出しをされ、へこんだときもありました。

初めて手応えを感じたのはいつですか。

19歳のとき、「日本表現派展」に150号の作品を初めて出品し、入選したときですね。奨励賞もいただくことができました。

初出品で入賞、奨励賞ですか。しかも150号というのはかなり大きいですね。

大先生は川端龍子から大作の画面づくりを学んだ方で、大作主義でした。ですので僕も20年くらい、毎年300号前後の作品を描いていました。

大作に挑む意義はなんですか。

心の底から描きたいというテーマじゃなかったら、数ヶ月間、苦しい思いをしなければならないし、飽きてきます。要するに、本気の1枚を描けということだったのだと思います。当時のモチーフは、ラクダ、ゾウ、バイソンなど大きな動物がほとんどで、15年くらいひたすら動物ばかり描き続けました。動物が好きなんですよ。その当時、何日も動物園に通って動物を観察してスケッチしていました。そのとき、徹底して動物の形を立体的につかみました。そのおかげで、今では一方向からの姿を描いたら、360度どの方向からも描けるようになりました。

伊藤若冲も何日も縁側に座って鶏を観察し、その生態を立体的に把握したそうですね。中野さんが若冲に衝撃を受けたのは、その頃ですか。

そうですね、20代の終わり頃でした。京都で開催された伊藤若冲展を見て、強い衝撃を受けました。

迷いを断ち切ってくれた若冲

若冲は、とにかく構図が斬新なんですよね。絵を見る人を驚かせてやろうという、ある種のエンターテインメント性も感じます。知らないものを描いてみてやろうという好奇心も強かったのでしょう。発色もすごい。墨が異常なほど黒いんです。なにか足してるんとちゃうかなと思うくらい黒い。分厚く描いていないのに、どうしてあんな発色になるのか、不思議でなりませんでした。それと、自然愛ですね。生き物に惚れ込んでいるのが伝わってくる。葉っぱも、虫食いの跡まで描いていますからね。『動植綵絵』を見てもわかるように、いろんな生き物にめちゃめちゃ愛情を注いでいる。線も力強い。大地をつかんでいる足なんか、隅々まで力がみなぎっている。だから時代を超えて、現代人にも訴えかける力があるんです。

若冲に衝撃を受けてから、中野さんの作風はどのように変わったのですか。

まず、墨の輪郭線をきちんと描こうと思ったことですね。それから、映像に見慣れた現代人にも訴えかける構図とはどういうものだろうと研究しました。動物を描いているとき、額縁の外にも空間が広がって見えるよう、ぎりぎりのトリミングを研究していましたが、若冲の絵を見たことで、もっと工夫の余地があることがわかりました。

その結果、たどり着いたのが、花鳥画でした。あえて先人たちが山ほど傑作を遺した分野で挑戦してみようと思ったのです。動物を描いていたときは、ずっとグレー系の色でしたが、花を描き始めるといろんな色が使えて、それだけでしびれましたね(笑)。

あえて花鳥画を選んだという点がいいですね。こう言ってはなんですが、日本画のいい部分と悪い部分が凝縮している分野が花鳥画だと思うんです。長い間に研ぎ澄まされた創作スタイルともいえますし、思考停止に陥っている分野であるともいえます。ある意味、日本画のなかでも〝ど真ん中〟ともいえるフィールドに分け入るって勇気のいることだと思います。

あまりそういう気負いはなかったのですが(笑)。

でも、実際、現代の花鳥画を描いている画家のなかには、花鳥と工業製品を組み合わせたりなど、現代風といいますか、新奇な作風を打ち立てている人もいますよね。でも、中野さんは意外なほど伝統的な手法やモチーフを踏襲していますね。

そうですね。花と鳥を組み合わせて描くという点では、伝統的といってもいいと思います。そもそも僕にはむちゃくちゃ新しいこと、それまでのものをひっくり返すようなことはできません。伝統に連なっていることに誇りを抱きつつ、令和に生きている日本画家として、自分にしかできない表現をしていきたいと思っています。

そこなんです。テーマ自体は伝統的なのに、古色蒼然とした印象がない。これって、難しいことではないでしょうか。

先ほどもお話しましたが、映像を見慣れている現代の人にも訴える力がある花鳥画ってなんだろうと、僕なりに試行錯誤を続けてきました。その成果が少しずつ現れているのかもしれません。

豊穣さと奥行きのあるぬけ感

伝統的な花鳥画は、余白をたくさんとることが多いですが、中野さんの作品は、画面全体にさまざまなものが描かれていますね。それなのに、息苦しさを感じない。どうしてなのでしょうね。

僕は画面にみっちり描きたいタイプです。ですから、どこかに〝ぬけ感〟がないと息苦しくなります。そこで、どうすれば、ぬけ感が生まれるか、いろいろと試しました。ひとつわかったことは、構図がうまいこといったら、そこがずっと向こうまで抜けているように感じられるということです。そう感じられる構図を下図の段階で入念に練ります。そのためには、誇張もします。僕は俳句も嗜んでいるのですが、松尾芭蕉は、誇張も省略もどんどんやっているんです。もうひとつ、モチーフの配置やリズム感も重要ですね。

中野さんが追求した構図があって、はじめて奥行きが深くなっていくのですね。

そうですね。西洋画は物を陰影で描写するから、手につかめそうなリンゴが描けるんです。それに対して日本画は、平面処理に向いているといいますか、あまり立体的な表現には向いていません。でも、僕は、そういいう日本画の特徴を逆手にとって描いてみようと思ったんです。

と言いますと?

日本画の材料である岩絵の具は粒子です。西洋画で使う油絵の具のように、上に載せて下の絵の具をすっぽり隠蔽するようなことはできません。下に塗られている色が微妙に影響するんです。同じ緑色の葉っぱを描くとしても、下にどんな色を塗っているかで微妙にトーンが変わります。表面に表れるのはほんの微かな違いであっても、葉っぱの種類によって、赤から黄色の異なる色を下地に塗る。それらが固まりになったとき、色同士がたがいに影響し合い、みずみずしさや生き生きとした鮮度を生みます。そうすることによって、一枚一枚に立体感がなくても、全体として量の存在を感じさせることができます。

なるほど、中野さんの作品は、実際に見える画面よりも多くの画面がその下に隠されているともいえるわけですね。中野さんは、あるインタビューで、品格を大切にしているとおっしゃっていましたね。そもそも、絵の品格とは、どうすれば表れてくるのでしょうね。

ひとことで言い表すのはとても難しいですが、あえて言えば、構想から完成に至るまでに、どれだけ自分の心のなかの淀みを取れるかではないでしょうか。絵を描くということ自体、作為がないとできないことですが、作為が過ぎてもダメです。もう少し具体的に言うなら、嫌らしくない丁寧さでしょうか。

それは言えますね。雑な仕事に品格は出てきません。このことは日本画に限らず、あらゆる仕事に共通すると思いますが。

丁寧さがなくなると、どうしても絵に違和感が残るんです。これもひとくちで言うのは難しいですが、視覚的違和感とでも言えばいいでしょうか。線がちょっと太いだけで違和感を覚えることがあるんです。自然は雑多に見えて、細部を見たらすごいメカニズムでできていますからね。そこからはずれた絵は、必ず違和感を覚えます。そうならないためには、ひとつひとつの仕事を丁寧にするということに尽きるのだと思います。

それにしても、中野さんの作品は、伝統的な花鳥画を踏襲しているのに、古色蒼然としたところがないですね。

最近、あらためて鮮度って大切だなあって思うようになりました。たとえばピカソの作品は、たった今描き終わったばかりという鮮度を感じさせます。絵の鮮度の定義づけは難しいけれど、描き手が本心から描きたくて描いたということ、内から湧き上がってくる情動に従って描いたということが伝わってくる絵じゃないと鮮度は保てないような気がします。ピカソも若冲も、描いてから数十年から百年以上も経っているのに、いまだに鮮度があるんですよね。僕もそういう絵を描きたいと思います。

いま、どんな日常をおくっていますか。

運送屋でバイトをしていた頃からのクセで、けっこう早起きですね。だいたい6時くらいに起きて、7時半くらいから仕事を始め、食事はべつとして夕方までずっと描いています。特別なことがない限り、ずっと同じ毎日をおくっています。

絵を描くのは楽しいですか。

楽しいですね。とても楽しいです。

中野さんの天職なのでしょう。2019年にニューヨークで開催された中野さんの個展を見たドイツ人キュレーターが、「私が生きている間に、現代作家の美しい日本画を見ることができるなんて」と言って涙を流したといいますが、中野さんは日本画の代表選手のひとりにもなっていると思います。これからも素晴らしい作品を描いて、日本美術のレベルの高さを世界に発信していただきたいと思います。

ありがとうございます。精進します。

 

※創作に関することなど、中野大輔氏について、さらに詳しい記事を「美し人」でご紹介しています。

https://www.umashi-bito.or.jp/artist/622/

(写真上から、絵を始めた頃のスケッチ:2枚共、十態図「めぐる」制作中、十態図『駈ける』、『花様今生  白銀抄』、『春の聲』、『ひかりあまねく』)

(取材・文/高久多美男)

 

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