人の数だけ物語がある。
HOME > Chinoma > インタビューブログ【人の数だけ物語がある。】 > 流れるままに、自由に、柔軟に。その先にたどり着いたのが「縁カレッジ」です。

ADVERTISING

紺碧の将
Interview Blog Vol.110

流れるままに、自由に、柔軟に。その先にたどり着いたのが「縁カレッジ」です。

SEASONS WORKS株式会社 取締役鈴木重美さん

2021.01.01

 

昭和36年生まれの鈴木重美さんはもうすぐ還暦。大学を中退したあと、ひたすら自由に、流れに身をまかせて生きてきました。その結果、たどり着いたのは「縁カレッジ」。いろいろなアイデアを持ち寄って学び合うという新しいスタイルの場を提供しています。どのような時代になっても柔軟に対応できる彼の生き方には、コロナ禍を克服するヒントがたくさん散りばめられています。

「定形」からはずれ、自由に生きる

鈴木さんは横浜生まれの横浜育ちですよね。

たしかに横浜ですが、僕が育ったところは田んぼや川がたくさんあって、幼いころは川でざりがにを獲ったり木登りをしたりと自然のなかで遊ぶのが好きでした。米軍基地が家の近くにあったですが、当時は管理も甘く、なかに入って遊んだりしていました。子供って、入ってはいけないと言われると入りたくなるんですよね。僕が子供のころはすでに戦争の跡はありませんでしたが、機銃の薬莢(やっきょう)があちこちに落ちていました。

将来、こんなふうになりたいなという夢はありましたか。

まったくなかったですね。子供のころはもちろん、大人になってからもなかった。そのときそのときの風まかせに生きてきました。強いて言えば、高校まではサッカー部に所属していましたから、サッカーの強い学校に入りたいという希望はありました。

大学はどちらですか。

明治大学の法律学部です。でも、そこに入ったのも、たまたま受かったからなんです。特に法律関係の仕事をしたいと思ったわけではありません。入学したものの社会の方が断然おもしろくなって、中退しました(笑)。

社会のどんなところが面白かったのですか。

19歳のとき、横浜で友人とバイク用品店を開いたんです。と言っても、僕が出資したわけじゃないんですが。その後、いろいろと縁があってワールドフォトプレス社が創刊した「モノ・マガジン」の手伝いをすることになりました、束見本をつくったり、原稿を書いたりしました。

いきなり原稿ですか。

ええ、ウインド・サーフィンやサーフィンの記事も書きましたよ。全然やったことがなかったのですが、あたかも経験したように書きました。根がいい加減ですから、そういうことは昔から得意なんです(笑)。

正社員ではなく、フリーの立場だったんですね。

5年間、フリーでした。気楽でしたよ。ま、60歳を目前にした今でも同じですが(笑)。仕事が空いたときは気ままに放浪の旅に出て、お金もないから神社の境内に寝泊まりしたりね。同級生は判で押したように大きな会社に入り、初任給を頭金にして車を買ったなどと言って見せびらかしに来ましたが、僕はまったく羨ましいとは思わなかったですね。年2回ボーナスをもらって、定年まで勤め上げて退職金をもらって、家のローンを払って、子供を大学に入れて……、と。そもそも僕は大学を卒業していないのですから、ふつうの人の歩むコースと同じはずがないですよね。

その後、どうされたんですか。

1983年、「モノ・マガジン」での取材が縁で、おもちゃのコレクター北原照久さんと出会ったんです。ちょうど渋谷西武でおもちゃ展を成功させたころでした。北原さんとすぐに意気投合しました。北原さんは「おもちゃのミュージアム」をつくりたいと言い、その手伝いをすることになったんです。そして、3年後の86年、横浜市山手に「トイズクラブ」を開店しました。僕は最初のスタッフとして店舗で働かせていただくことになりました。

北原さんといえば、弊社が発行していた『fooga』や『Japanist』でも取材させていただいていますし、フーガブックスでは『出会い』という本も刊行させていただきました。少なからぬご縁がある方です。

僕はいつの時代も楽しかったのですが、そのころは特に楽しかったですね。朝起きて、気がつくと夕方という感じでした。

トイズ・クラブにはいつまでいらっしゃったんですか。

2000年までの14年間です。店舗での応対も楽しかったですが、おもちゃの企画を考えたり。商業施設内にビルトインのテーマパークをつくる手伝いをしたり……。いろいろなことがあり、いろいろな人に出会うことができました。

どうして辞めることになったのですか。

べつに仕事が嫌でとか、人間関係が嫌になったというわけではないんです。いま考えるとおかしいんですけど、社会人になると夏休みがとれないでしょう? だから、このあたりで長い休みをとろうと思ったんです。2年間なにもしませんでした。

2年間遊べるというのは才能ですね。

毎日サーフィンをやったり、女の子たちと焚き火やバーベキューをしたり……。苦もなく遊べましたよ(笑)。お金が尽きたら働こうって。独身だったからできたようなものですね。

「なんでもコーディネーター」

そのあと、どうされたのですか。

これも自然の流れなんです。飲み屋で仲良くなった人が有名なパン屋で働いていたんですが、独立したい、でも肝心の開業資金がないと。いくらくらい必要なの? と訊くと、2000万円くらいと言う。「じゃあ、僕も協力するから集めようよ」となったんです。2003年のことでした。

で、集まったんですか。

はい。これはと思う人に彼のつくるパンを食べてもらい、彼がつくりたいパン屋の説明をし、出資してくれる人がいたら紹介してくださいとお願いしたんです。僕は人脈だけは豊富ですから。すると、何人かが「一口のりたい」と言ってくれ、開業資金が集まったんです。僕も少し出資しました。そのうち、いろいろな人が「店を出したいんだけど」とか「コンサルをしてほしい」と言ってくれるようになったんです。いろいろつくりましたよ、パン屋とかカフェとかデリカテッセンとか。

まさしく人のコーディネーターですね。

「モノ・マガジン」に「カフェの作り方」というコラムを連載していたのですが、その効果もあったんだと思います。ただね、コンサルはうまくいって当たり前。たくさん案件があると、なかには失敗事例も出てきちゃうんです。ある案件が計画倒産みたいな結果になってしまい、多くの人に迷惑をかけてしまいました。そのとき、もうやめようと思いました。その案件もきちんと資金を回収して出資者に返しましたが。

仕事を依頼してくる人の真意を見抜くのは難しいですよね。その後はどうされましたか。

ちょうどその頃、ある一部上場の内装会社から「うちにこないか」というオファーがきました。一部上場というのが魅力でね(笑)、社員として働くことになり、5年ほど在籍しました。

鈴木さんにもサラリーマン時代があったのですね(笑)。

はい。ただ、それまでのように自由にやらせてもらいましたが。

その会社を辞めたあとは?

そのころ、横浜市が歴史的建造物を文化・芸術に活用する「BankART」と取り組みを始めたのですが、そこで催されていた「まちの学校」に通ううち、こういうのも面白いなと思いました。社会人になってからも好きなことを学びたいという人はたくさんいます。そういう人たちにさまざまな学びを提供することは、社会的にもとても意義があると思ったのです。そんな折、京橋にある写真教室の再生を請け負うことになり、写真教室の運営に携わりました。

そこではどんなことをされたのですか。

傾きかけた写真教室を立て直しました。僕は写真家でありません。別に写真でなくもよかった。内容は料理教室でも英語教室でも。ただ、こうすればうまくいくというフォーマットがありました。ないのは実績。自分で運営したことだけがなかったので、立て直すことでマネージメントを自分なりにしてみました。

やがて受講者の数も増え、経営が安定するようになりました。ちょうどそのころ、偶然にもすぐ近くで再開発ビル・京橋エドグランの計画が進んでいたのですが、ディベロッパーの日本土地建物と話をする機会があり、建物の一角に新しいタイプのカルチャー教室を開きたいということを聞いたんです。それまでのカルチャーセンターは講師が生徒になにかを教えるというスタイルですが、その教室はよりフラットと言いますか、ファシリテーターを中心にみんなで学びながらつながっていくというスタイルです。しかも、英会話などメジャーなコンテンツではなく、ニッチな講座、例えば落語、歴史散歩、動画をつくる講座など、テーマはなんでもいいのです。そうやってできたのが「京橋 縁カレッジ」で、学長は北原さんに就任していただきました。

参加するみんなで学び合うスタイルの「まちの大学」

それは時代の要請に適っていますね。これまでは小アイテム・多売が本流でした。大人数で宴会ができる大型旅館などもそうですが、もうそういう時代じゃないですよね。多アイテム少売言いますか、ニッチなマーケットでしっかりファンになってもらい、長く続けられるものが求められているのではないでしょうか。

そうですね。そういう意味では、僕のような人間が生きやすい時代になったと思います(笑)。どこの組織にも所属しないで、風来坊のように生きてきましたが、そういうことがマイナスに見られない世の中になったと感じています。

その後、同じようなまちの教室を鎌倉でも立ち上げたのですね。

面白法人カヤックの柳澤大輔さんと電車で一緒になり、「京橋 縁カレッジ」のことを話したら、それは面白いですね、と。僕は鎌倉に住んでいて愛着もありますから「鎌倉にも作りたい」と言ったら、じゃあ協力しますよとトントン拍子に話が進んだのです。そして2019年4月、「まちの大学 KAMAKURA」を開校しました。基本的にコンテンツはアイデアがある人にまかせ、僕は裏方に徹しています。あるときは、20人くらいで「まちのショートショート」を創作してZOOMで披露し、みんなで評価し合うという企画もありました。

そういう内容でしたら、同じような趣味嗜好の人が集まり、人と人のつながりもできそうですね。

そうなんです。2021年1月、横浜に新しいサロンを作ります。スクールという概念を外した大人が集まれるサークル活動とも言ったらいいのでしょうか。音楽、写真、編集といったコンテンツを配信します。コロナの影響でZOOMが一般的になり、遠隔地に住む人同士がつながりやすくなったというのも大きいですね。コロナ前と比べ、ずっとやりやすくなっていますよ。いまではいろいろな企画が持ち込まれてくるようになりました。ただ、いまのところ講座は満杯状態です。

ところで、肩書にあるSEASONS WORKS株式会社というのは、主にどのような事業をされているのですか。

実は妻が社長なんです。ひとことでいえば、生きたお金が循環するビジネスモデル作りを目指したもので、店舗やブランドのコンサルやケータリング、幅広く手がけています。横浜で「Chair」というコーヒー豆の焙煎の店も昨年7月にオープンしました。

時代の流れに合せて自由に生きる鈴木さんにピッタリの世の中になりつつありますね。この先、どういう展開になるか楽しみですね。

ありがとうございます。先が読めないというのは面白いことなんですよ(笑)。

(取材・文/高久多美男)

 

京橋縁カレッジ

https://kyobashi-en-college.tokyo/

 

まちの大学鎌倉

https://daigaku.machino.co

 

Chair coffee & roasters

https://chairsun.com/

 

ADVERTISING

Recommend

記事一覧へ
Recommend Contents
このページのトップへ