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紺碧の将
Interview Blog vol.133

大企業を辞めて独立。少しでも人の役に立っている実感があります。

こだわり不動産サービス株式会社 代表北島和彦さん

2024.04.17

 

佐賀県に生まれ、大学進学を機に憧れの東京へ。その後、上場企業に入社するも、違和感を拭うことができず、栃木県宇都宮市で起業。

自分の心の移り変わりを直視し、心のままに従って歩んできた真摯な姿がここにあります。

憧れの東京へ

北島さんのお生まれは?

1967年、佐賀県で生まれました。

現在は栃木県宇都宮市でこだわり不動産サービスという会社を営まれていますね。佐賀というと大隈重信や江藤新平を連想します。

大隈や江藤も在籍していた佐賀鍋島藩の藩校の後身で佐賀西高校という地元で有名な進学校があります。遠い存在だと思っていましたが、中3時に成績が急に上がり欲が出てきました。親しい交友関係等の憧れや影響もあって受験にこぎ着けましたが不合格でした。
小学4年頃までは相当に無気力で呆けた子供でした。宿題はやらないし、先生が言ったことは聞いてないし守らない。鍵っ子で毎日駄菓子屋に通い、好き放題にテレビを見て、そんな子供時代からすると中学時代では人目も気にするようになりましたが、急に成績が上がったからといっても当時の状況を考えれば身の程知らずなチャレンジだったと思います。

憧れは大きな原動力になります。結局高校進学は?

滑り止めで合格した私立高校には行かず、次の年にまた西高を受験しました。しかし、多少の無理しても上を目指したことは結果的に自分の考え方を作った要因のようにも思います。さすがに中学校の勉強をもう1年やったのですから次は難なく合格しました。

高校生活は?

せっかく苦労して入った佐賀県一のトップ高ですが、一念発起して勉学に打ち込もうという気になれませんでした。勉強ができる人がたくさんいるのです。また、勉強だけでなくスポーツなど何でもこなせるマルチな才能のある人がそれ相当いるのです。勉強だけでない人がますますカッコ良く見えました。私は音楽が大好きだったので受験勉強が終わったら密かにバンドを始めたいとエレキギターを買うつもりでした。親が聞いたら泣きそうですね。

どんなジャンルの音楽ですか。

少し背伸びしたような大人の雰囲気がするクロスオーバーとかフュージョンなどに憧れました。

音楽は誰かの影響を受けたのですか。

元々は特に裕福でもない家でしたが、早くからあった父のラジカセが影響していたかもしれません。小さい頃に片っ端からアニメの歌やら歌謡曲などを録音してはよく聞いていました。中学時代から同級生よりも先を行っていたいと洋楽やインストゥルメンタル、それから芸能や音楽業界に興味を持つようになっていました。もちろん聴くのは好きだけれど演奏できたらさぞ幸せだろうなと思っていました。自分が楽器を演奏するなんてことは憧れのまた憧れです。高一の時に飲食店でのバイトでお金を貯めて入手したYAMAHA SG 1000は嬉しくて嬉しくて見て触って幸せでした。刺激を受けた級友とのライバル心も芽生えたりして、朝起きたら弾いて、学校の休み時間にも弾いて、帰ってから弾いて……と。ギターは私に向いていたようです。それを通して自信、人とのつながり、交友関係、将来の夢などたくさんのものを与えてくれました。それまで人より秀でたものがないと思っていた私に一番になれるものができたのです。

そこまで夢中になった理由はなんですか。

自分の居場所があった!と思えたのでしょう。また、80年代の華やかな音楽業界に少しは近づいた自分が少し得意気で、ちょっと斜に構えていてアウトローでカッコいいと思い込んでいました。自分のアイデンティティが欲しかったのです。TOTOなどが絡む洋楽シーンや当時のテクニカルなスタジオミュージシャンたちはまた素敵で憧れでした。音楽は都会にあるものと考えていましたし、自信を持てるようになった私は女の子とも臆せず話せるようになり、ほとほとチャラい高校生でした。早く大人になりたくて背伸びしていました。高校3年時の進路指導時に「将来はスタジオミュージシャンになりたい」と言ったら、呆れた顔をされて諭されました。大学に行きなさいと(笑)。進学校だから学校は合格者数が欲しいのです。しかし、それで自分自身大学も一つかなと思ってしまったのですから、そこが音楽追求の終わりだったのかと思います。

その頃、将来の夢はあったのですか。

将来に何をやりたいと言うことはなかったです。ただただ都会的なものに憧れ、強烈な発信をしている東京に行きたかったのです。高校1年時からつきあっていた彼女には相当に影響を受けました。彼女は東京出身で、父親の転勤のため佐賀にいて実家は東京にありました。彼女から聞く東京で過ごした街の話は輝いていて羨ましかった。佐賀の小さな町しか知らない私は大都会での生活に憧れを持っていました。そんな夢子ちゃんのような気構えですから、2年後またしても大学受験で失敗し、また浪人生活が始まりました。彼女はひと足先に東京の大学へ進学。その大好きな彼女に9月にバッサリとフラれてしまったのです。なんとも情けない抜け殻のようで気力も何も起きないのです。彼女がここまで大きな存在であったとは思っていなかった。しかし、もう電話もできなくなった彼女の存在が数週間後には本気で勉強する機会を与えてくれたのです。考え方を変えました。「もう一度彼女に告白する機会が得られるとするならば、それは自分が早稲田の政経に合格すること。これが自分に課された条件」と都合よくルールを作って、それ以降、寝てるか食べてるか勉強しているかというような日々が始まりました。ビリギャルほどではありませんが、高校時代に55程度だった偏差値は72まで上がりました。合格圏内です。自分でも驚くほどです。彼女を追って勉強するなんてと今となっては相当な笑い話ですが、自分の中ではあまりにも純粋な記憶なのです(笑)。

大学はどちらへ?

中央大学です。法学部です。
結局、早稲田は落ちました。残念ながら彼女に再告白する機会は叶えられませんでした(笑)。告白はしませんでしたが、一度だけ電話をしました。私が中央法科に合格したことは相当驚いていました。

それも難関大学ではないですか。

中央の法科は昔から司法試験合格者数で有名な大学です。当時は早慶に行かずに入学する学生もあり、私立大学の法学部では最上位だったと思います。学生のほとんどは超真面目で優秀な子たちです。多くは小中高時代は学級委員タイプだったことでしょう。私はまるで違いますが(笑)。

 

大学時代はどんな感じでしたか。

 

司法試験合格を目指して入学してくる学生がとても多いのですが、これはまた大変な世界です。そもそも彼女を追って大学受験をした私には相当問題がありますね。東京での生活が実際に始まり、大学の勉強は置いといて、「ぴあマップ」を片手に東京での生活を探求しました。アルバイトはかなりやりました。工場でのライン作業、道路交通量調査、ホテルのウェイター、家庭教師、試験監督官、はとバスの操車係、インチキな新聞広告代理店、TV局報道部でのADなどです。東京にはたくさんの仕事があるのです。アルバイトでも仕事をすると交友関係は広くなりました。いろんな人とお付き合いするようになってことごとく地方と東京の違いを実感するのです。地方と東京を比較する相対的なものの見方ができるようになり、日本経済の実態や理解が深まったようにも思います。

一方、大学では、変わらず勉強に熱は入らないのですがバンドや文化系のサークルに所属し、バンド活動ではそこそこ上手いので重宝されましたが一時期の情熱はさほどありません。何の間違いか試験を経て司法試験合格者も多い優秀な生徒が集まる人気の少人数のゼミに入れました。またまたさらに場違いなところに来て勉強も余儀なくされましたが、上昇志向が強く志のある同級生などの交友関係は広がりました。先輩諸氏も有名企業に勤めるビジネスパーソンの集まりのような雰囲気です。

都会で生活すると、さまざまな社会の断面が見えてきますよね。

そうですね。人がたくさん集まるということは、そういうことですよね。東京には研究や物作り、情報などあらゆる分野においてピンがいるのです。優秀な人材も最高の情報も集積され、ここで物事が作られ発信されているのだとよくよくわかりました。
アルバイトとはいえテレビ局での仕事はいろんな出会いや経験や見識をつけてくれてまた人と違うことをしている実感もあって楽しかったです。一方、当時のバブル風潮もあって、社員の派手な生活や様相を見るに、少し自重したいと考えるようにもなりました。その後の進路についてはその反動か、相当な安定路線で選んでしまいました。せっかくの機会だからと40社ほどの有名企業を訪問しました。それなりに一目置いてくれる有名大学であることもあって楽観的だったのです。ミーハー基準です。

就職先は?

当時、金融関係は学生の人気業種でした。業界トップ企業のT海上、N生命、T都市銀行の3社で最終面接まで進んだのですが、残念ながらそれが全て落ちてしまいました。そんな状況にもかかわらず入社を待ってくれたK火災にご縁を感じ入社しました。1992年(平成4年)のことです。周囲の安定した大企業への評価、福利厚生面、ステイタスや風潮に影響を受けてしまったのですが、今思えば就職する会社は自分がやりたいこと、好きなことを基本に据えて選ぶべきだと思います。子供には強くそう伝えたい。

私が配属されたのは当時社内で出世コースといわれた法人営業部という部署で銀座の新築ビルにありました。この配属には入社時の自己紹介スピーチで「私はこの先疲れたと言いません」などと言ってしまったのが影響したように思っています。会社内でも同期内でも花形部署なのです。しかし、これがまた途方もなく大変な環境でした。上司は冷酷なエリートで、最年少役員昇格を狙っています。人一倍数字には敏感で、バブルは崩壊しているのに前年度実績数字を落とせません。周囲もピリつき、与えられた仕事は膨大で簡単には覚えられません。先輩も自分のことで精一杯なので余裕がありません。仕事は新入社員の自分に信用もなく完結できるわけもなく残業などはもう気にならないのですが、楽な大学生活をしてきた私には人格を否定されたような環境において心身衰弱して過ごした時期です。夜中1時過ぎの新橋駅のホームの1番前に立って帰りの電車を待っていると線路に吸い込まれそうになるのです。何度楽になりたいと思ってとどまったことか。同じ会社寮にいた同期の仲間の存在が支えてくれました。

待遇はよかったのでしょう。

世間一般と比べればそうかもしれません。年収は30代で1000万円を超えていました。でも、それと引き換えに人生において相当なものを失うこともわかりました。いやこの会社だけでなく多くのサラリーマンがそうなのです。多くの大企業のサラリーマンを最後まで全うされる方には敬意を持っています。言いたいことは言えず、その実態はブラック企業に近いところも多いことでしょう。並大抵のことで勤まるものではありません。

大きな組織はえてしてそういうものですよね。すべてがシステマチックになっていますから自己完結性はほとんどありませんし裁量権もないかわり待遇がいい。そういう仕組みに合う人はずっと働けるのでしょうが、そうじゃない人にとっては地獄でしょうね(笑)。

それでも待遇が良いとも思えません。みんな苦しくてもがいているのです。本音は辞めたいのです。でも中途半端な優等生なので逃げられないのです。その過去の積み上げてきたキャリアの上に成り立った職業ですし、結婚相手だって旦那が上場企業に勤めているからと結婚した女性も多いことでしょう。奥さんはあれこれ不満は言うけれど辞めさせてくれないでしょう。いい子で育ってきた中途半端な優等生は無理なことを言われてもハイと言ってしまうのです。自分さえ良ければよいとつい考えてしまう人たちの巣窟です。真面目が故にノーと言えず、いろいろがんじがらめです。元が不良ならすぐ辞めてしまうのですけどね(笑)。
そんな私に転機が訪れたのは3年目、熊本支店に配属されてからです。東京での法人営業部顧客の大半は上場企業でしたが、熊本では個人事業者や小さな会社の経営者が多かったです。大企業とは違い、私一人で完結できる相手先に変わりました。法人営業部で培われた力がついていたのでしょう。大人との仕事の会話もそれなりにできるようになっていたと思います。

熊本支店では営業成績トップになりました。また周りも評価してくれましたし、やればできると自分に自信をつけました。その頃知り合った取引先の小さな会社の経営者の数人に影響を受けました。与えられた時間を自由にコントロールして、仕事の環境を自分で構築し、自分自身で仕事の内容を決めている様子は羨ましくて仕方がありませんでした。一方、私は5年後、10年後の自分の姿が見えてしまい、どうにかしなければという衝動が起こりました。一部上場の多少のステイタスは感じられる状況ではあるものの、流れを変えることもできそうにないルーティンとがんじがらめな命令系統にフラストレーションを抱えながら働き続けるか、おそらく苦労するだろうけれど小さいながらも自分の考えのもとに仕事を構築していくこととどっちがいいかなどと真剣に考え始めました。自分は絶対できるはず、またまたどうにかして殻を破ろうとしだしました。

自ずと答えが出たのでしょうね。

そうです。独立したいという気持ちは日に日に強くなり、でもどうやって生計を立てていくのか、それが問題です。資格取得を検討したり、思いつくビジネスプランを書き連ねたりしていました。この頃に読んだ「7つの習慣」は私の座右の書で骨肉となっています。仕事なのだから嫌なこともあって当然と考えていた働き方そのもののに、そうではない働き方があるのだと明確に示してくれたのです。衝撃的でした。

そうした頃「宇都宮市にある小さな会社だけど、代替わりの新社長を補佐する中堅の幹部社員を募集しているからおまえもどうか」という話が会社の先輩を通じて入ってきたのです。軽く聞いたその言葉は日に日に大きくなり、胸のうちでこだましてきます。結局、意を決してその会社の社長に会いに宇都宮へ行きました。周りには相当反対されましたね。自分を安く売るなとか。

当時の給料を保証してくれたのもありがたいですが、私がそこに魅力を感じたのはすでに小さくてもできあがっている会社の運営に携わることができること、自分で仕事を決められる環境、また、自分自身の力で事業を発展させられる可能性があると思えたこと、今以上の給料は自分で稼げば良いこと、自分はできるに決まっていると決意し、周囲を説得し、転職しました。29歳のときでした。

大きな転機でしたね。そういうチャンスをものにするかどうかが人生の分水嶺になるような気がします。まして熊本と栃木ではかなり距離があります。それを超えるのは、思い切りと行動力ですね。そういうものが運を引き寄せるのだと思います。

そうですね。その会社では10年間お世話になりました。

転職先ではどのようなことを?

こんな若輩者を役員として迎えてくれました。店舗など営業の現場にもいましたが、経理や総務などそれまで関わったことがない業務も経験し、銀行との付き合いや、求人して面接をしたり、顧客管理システムを作ったり、新しい営業企画を考えたり、デザインや広告を作ったりしました。会社の業績に直結する仕事でないと評価されないなと思い、希望して霊園の事業に携わることになりました。
そこでの話ですが、生きているうちに墓地を用意しておこうと考えるような人は心にも金銭的にも余裕がある人しかいません。それなりに人格者で家族関係も良好。多くが年配者となるお客様たちに霊園や墓石の話を若造がすることに当初難しさを感じていましたが、「年配の方は頑張っている若者が好き」ということに気づきました。仕事というものを超えて、ご縁を含め可愛がってもらいました。結局500件ほどの契約を結んだことは、何も知らない宇都宮で仕事をしていく上での自信にもなりました。まだまだ30代の若輩者でありながら小さな会社でも役員という形で会社に携わることの経験や、組織運営での葛藤もあったりと数多くの苦しみや喜びを得られました。

39歳で起業

その後、独立されたのですか。

2000年頃に国の方針で司法試験合格者を倍増させようとする動きがありました。当時会社の役員間での組織の作り方や経営方針、営業展開などでの考え方において葛藤が多く、自分の意見を強くきちんと伝えて行くためには自分自身の生活の基盤となる後ろ盾がないとこれはまた卑屈に会社に迎合せざるを得ないという状況が頻繁に起こりました。

私は自分が間違っていると思うものにしっかりノーと言えるために、自分が納得した仕事を遂行するための盾として、司法試験の取得を考えたのです。大学時代ほぼ勉強しなかったくせに中央法科の魂ここにありみたいな感じです(笑)。通信教材での答案を何百と書いたりと2年間毎日みっちりやってみたのです。結果的に自分には到底無理な領域ということがよくわかりました。続けたら合格できるという保証もないのにこのまま勉強を続けたら、いよいよこの先廃人になるなと(笑)。

では、なぜ不動産業界に?

会社内での葛藤も増え、またいずれ会社を去るべき時を悟りつつ、司法試験も諦めてフラストレーションの日々を過ごしていたある日、書店でたまたま「今年こそ宅建」という雑誌が目につきました。司法試験の勉強をしたけれど何も形は残っていないのです。司法試験は取れずとも宅建なら3ヶ月で取れるだろうと思いましたし、とりあえず何か形に残しておこうという感じです。
思ったより勉強は詰め込みで大変でした。勉強を始めてみると音楽スタジオを併設した防音マンション賃貸物件を作ってみたらとか、独り身の方達のシェアハウスとか、年配者たちのお客さまが亡くなった後に誰も住まくなる家の存在やらそうしたことが頭に浮かんでくるのです。起業したのは今から17年前ですが、その当時から空き家を整理するというニーズがありました。それと併せて中古住宅のリフォームというニーズもありましたし、それを柱に自分自身のオウンビジネスをやれると思うとえもしれぬ自信がみなぎって資格取得後の翌年に退職し、すぐに開業しました。2007年、39歳のときでした。

川が流れるように自然の転身でしたね。「こだわり不動産サービス」という社名にこめた思いはなんですか。

お客さんが考えているこだわりに応えたいという意味を込めています。ただ、専門的な知識もなく、本来はその業界の会社に入って基礎を学んでから始めるべきだったと思います。それまでに貯めた700万を資本金とし、国民金融公庫からの借り入れ700万円を合わせた1400万円を事業資金としたのですが、2年後、その残高は9万円になってしまいました。無知の授業料として毎月60万円づつ目減りしていきました。何も経験なくやる気だけで始まるとこうなるという実例です。妻は通帳を見て泣きましたね。その少し前から改善の兆しはあったのですが、よくV字回復できたなと思います。

私でも泣いてしまうかもしれません(笑)。

私も泣きたかったのですが、泣けないですよね。

起業されてよかったと思いますか。

はい。創業してから17年経ちますが、まだまだ世の中の役に立っているというほどではありません。しかし、ご縁があってこの小さな会社と関わってくれる方がいます。自分が多少他人の役に立っていると実感できる時があります。頼られたり喜ばれたりすると心から嬉しくなります。昔の自分をこうして振り返ると、あの呆けていた私が今こうして人から相談を持ちかけられて、それで解決に向けて奔走しているということが不思議だなと笑ってしまうときもあり、また生きているなという実感があるのです。人の死に関わる仕事に就いた経験から、自分の人生や生きることについて強く考える機会がありました。
死ぬ時には人一人でも良いから誰かの役に立つことができたと実感できたならば心地よく死ねるのだろうなというふうに悟りました。昨今では自分のことしか考えない、自分さえ良ければ良い、またそうしか考えられないような世の中になってしまっていることを本当に痛ましく心苦しく思っています。そのような浅ましい大人の様子を見て子供たちがどう育つのかと。
私の会社はそんなに大きくなくていいです。食べられないのでは困るのですが、少しだけおすそ分けできる程度の余裕を持ちつつ続けられればいいかなと思っています。少しでも誰かの何かの役に立てるような人になりたいです。それを仕事を通しながらマイペースで少しづつ積み重ねていけるこの環境はありがたいことです。

もうすっかり宇都宮の風土になじんでいますね。

宇都宮には27年住んでいますが、住みやすくていい街です。不動産の仕事をしているのですからだいぶ詳しくなりました。でもまだまだ先輩諸氏から昔のことを聞いては新たな発見だなと喜んでいます。

ありがとうございました。これからも頑張ってください。

(取材・文/髙久多樂)

(写真上から/ ・宇都宮のラテンジャズバンド「ORQUESTA de ごじゃる!」に参加した2005年頃 ・テレビ朝日報道部でニュースステーションの小宮悦子アナウンサーと(1990年頃) ・こだわり不動産サービスを設立した頃、妻と二人の仲間と ・家じまいセミナー風景

 

こだわり不動産サービスの公式ページ(北島さんが制作)

https://www.kodawarifudousan.com/

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