才能を疑い出すのが、まさしく才能のあかし
「くるみ割り人形」でおなじみ、ドイツの作家、エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンの言葉だ。作曲家、音楽評論家、画家、法律家と、さまざまな顔をもつホフマンが多彩な才能を開花させたのは、やはり自らの才能を疑ったからだろうか。
ソクラテスが「無知の知」を説いたように、
知れば知るほど自分が何も知っていないことに気づく時がある。
若いうちは、なんでもできる、なんでも知っていると意気込むけれど、知識や技術を身につけて自信が生まれたころに、決まって分厚い壁が現れ自信を粉々にしてしまう。
その時ようやく「無知の知」を自覚する。
自分は何も知らなかった、何もわかっていなかったと自覚した時、人ははじめて謙虚になれる。
生き物が生まれながらに成長するよう仕組まれているように、成長に必要な試練の壁もまた仕組まれている。
意識して自分を成長させたいと思えば、そこには必ず「無知の知」という壁が立ちはだかるよう、あらかじめセッティングされているのだ。
人生は成長と壁の連続。
魂を成長させるために生を受けたのだとすれば、死ぬときにどれだけ成長できたかが問われるのだろう。
そしてきっと、成長を支えるのが「才能(持ち味)」という道具。
持っている道具をいつもいい状態にしておこうと思えば、点検もするし、磨きもする。
それは、プロフェッショナルな人たちの共通点。
自らの才能を疑う天才たち。
自らの才能を疑い、見つめ直す。
改善できるところは改善し、強化するところは負荷をかけて筋力をつける。
「自分はまだまだ」と思う謙虚な姿勢で登ってゆけば、いつか絶景をみられる頂にたどり着いていた、なんてこともあるかもしれない。
今回は「千秋楽」を紹介。「この相撲一番にて、千秋楽〜」という口上、耳にしたことはありませんか。相撲でおなじみ、場所最終日に行司が呼び上げる結びの触れです。 続きは……。
(211010 第754回)