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紺碧の将
Interview Blog vol.120

古代から続くガラスを次の世代へつなぎたい。

ガラス作家有永浩太さん

2021.09.28

ヴェネチアン・グラスの代表ともいえるレース・グラスの伝統技法をアレンジし、オリジナルの技法で創作するガラス作家の有永浩太さん。布をテーマに展開する作品に『gaze』と名付けたのは、ガラスとの不思議なつながりがあったからだといいます。そのガラスとガーゼに込める思いを語っていただきました。

ガラスに封じ込めたガラスとガーゼの「時間軸」

『gaze』の作品は、「レース・グラス」とは違うのですよね。「ガーゼ」という用語で通用しますか。

「ガーゼ」というのは、僕が今までのレース・グラスと区別するためにつけた名前で、一般的にこの技法はレース・グラスと呼ばれています。だから「レース・グラス」を発展させた「ガーゼ・グラス」と言ったところでしょうか。

なぜ「ガーゼ」なんでしょう。

布をテーマに作り始めた時、タイトルをどうしようかと調べているうちに、ふと「ガーゼ」が思いついたんです。日本で使われるガーゼはドイツ語で、医療用の布と一緒に言葉が入ってきたらしく、その語源をたどると発祥は中近東のあたり、「薄く目の荒い絹の織物」というものでした。その地域性が僕はひっかかった。実は、吹きガラスの発祥もその辺りなんですよ。それがなんか、僕の中ですごくインパクトがあって、つながったというか、ものが伝わった時間軸、長い時間をかけて中東から届いた時間というものがしっくりきて、「ガーゼ」という名前にしました。

吹きガラスの歴史は古いのですか。

吹きガラスの手法は2000年前にすでに完成されています。しかも、その手法は今もほとんど変わらないんですよ。その吹きガラスの歴史的な時間、続いてきた長い時間の先の方で僕は仕事をしている、古の人たちとつながっている、というような感覚があるんです。

一見、レース・グラスにも見えますが、よくよく見るとまったく違いますね。まるで織物が折り込まれているような、一本一本のガラス糸が繊細で、しかも緻密に編まれています。

織物はかなり意識しています。織物をイメージしたのは、この「ガーゼ」の作品を作りはじめたきっかけでもあるんです。
独立する前にいた工房で、イタリアのマエストロが来日した時にレース・グラスを披露してくれたことがあって、その時に、どんなに細く引き伸ばしても色が消えないという新しい色ガラスが開発されたことを知りました。その素材があれば、編み物や織物のような、それまでのヴェネチアン・グラスとはまったく違うものが作れるんじゃないかと思って作ったのが、「ガーゼ・グラス」のはじまりです。

当初の評価はどうでしたか。

評判は悪かったですね(笑)。やっぱりヴェネチアン・グラスとして見られてしまって、「これはどう見たってヴェネチアン・グラスではない。もっとそれらしくしたほうがいいんじゃないか」と指摘されました。

でも、技法としては伝統的なレース・グラスとそれほど変わらないんですよね。

手法はほぼ同じです。ただ見た目はまったく違います。イタリヤやアメリカで作られるレース・グラスは、煌びやかで狂いのないもの、完璧を目指す仕事として、ヴェネチアン・グラスというのが存在していたんです。だけど、僕としてはそういうレースの感覚って、日本人の感覚には合わないんじゃないかと感じていました。完璧すぎるのは、僕としては面白みに欠けると思ったんです。あくまで素材として、その面白さを作りながら感じたいですし、それがまた人の想像を掻き立てるんじゃないかというのがあって。だったら日本人の感覚で、ヴェネチアン・グラスの手法を使った、まったく違う新しいレース・グラスを作っていきたいと思いました。

それで織物を織り込もうと?

はい。もともと織物の工程には憧れがあったんです。縦糸と横糸を張って、時間をかけて出来上がっていくという、そういう時間軸が自分の作品にも欲しいなと思っていました。
だから、このガラスが開発されたときに、レース・グラスの技法と組み合わせたら自分のガラスの中に取り込めるんじゃないかと。

時間軸をですか。

はい。吹きガラスの仕事は、とにかく早い仕事なんです。時間との勝負。短時間で作らないといけなくて、シンプルな作りほど綺麗なかたちになりますが、そこを過ぎると形がゆがんでしまう。できるだけ早く早く、という仕事なんです。
その速さだけの仕事を、僕としてはもうちょっと手を加えたいというか、もう少し時間をかけてじっくり作りたかった。

ガラスと織物では、素材はもちろん硬いものと柔らかいものという意味でも全然違います。当然、工程や出来上がるまでの時間も違うわけで、まったくちがうものを融合しているということですよね。

矛盾したものではありますね。常に2つのものが1つの中に入っているという感じです。織物とガラスの時間軸がタイトルとつながった時、別々の素材が辿ってきた時間も自分の作品のなかに内包できたと、しっくりきました。だから、作品のテーマは「時間」だな、と。

となると、一般的なガラスよりも出来上がりに時間がかかるわけですね。

そうなんです。日常づかいのガラスも、注文はあるんですけど、器は僕一人で作っているので、さすがにそんなに数は作れません。2年前の注文を今作っているという状態です。器にしても型を使わないから、これを作ってって言われても、作れるようになるまでには時間がかかります。最近の展示会で発表しているドット柄の『netz(網)』という作品も、『gaze』から展開したもので8年くらい前から取り組んでいました。

考古学者の夢からガラス作家の道へ

「時間」を強く意識するのは、有永さんがガラスの世界に入ったこととも何か関係があるのですか。

あると思います。僕の叔母は画家で若い頃にシルクロードの随行画家をしていたことがあるんですけど、その時の記録の絵を中学生の頃に祖母の家でよく目にしていましたし、そのころは考古学者になりたいと思っていたんです。僕の生まれ育った大阪の堺市は古墳だらけで、工事をするとたいてい遺跡が出てくるんですよ。高校生の頃は発掘のアルバイトもしたことがあって、ガラスに興味を持ったのも古墳でした。

中学生の頃にシルクロードの絵を見ていたと。なんだか未来を予言しているようですね。しかも、夢は考古学者とは驚きです。古墳でガラスに興味を持ったというのは、どういうことですか。

小学生の頃に行った藤ノ木古墳で国葬品が再現されていて、その中に古代のガラス玉があったんです。しかも、当時の手法でガラスのビーズをその場で作っていたんですが、それが面白くて、ガラス作りに興味を持ちました。

ガラスの世界に入られたのは、それがきっかけですか。

はい。ただ考古学者の道も考えていました。だから大学は考古学の大学とガラス科のある倉敷芸術科学大学を受験して、どちらも合格はしたんですけどね。やっぱり学者ではなく、実際手を動かして物を作る方がいいなと思って、芸大の方へ行きました。

ガラスの世界に入った最初の印象はどうでしたか。

実際やってみると、ガラスって思い通りにならなくて、でもそれが面白かったですね。触れないからすごく扱いづらい。でも、その場でどんどん形になるのが面白い。ほとんど吹きガラスしかしてなかったんですけどね(笑)

誰かに師事されたのですか。

大学の教授が「倉敷ガラス」の小谷眞三先生でしたから、小谷先生から多くのことを学ばせていただきました。それと、在学中に奨学金をもらってドイツのフラウエナウというガラスの町に3週間滞在したことも大きかったですね。代々続く工場主が主催するサマーアカデミーに参加したんですが、日本以外のガラスに触れることができて視野が広がりました。

その頃はもう、ガラス作家になろうと思っていたのですか。

自分でガラスの創作をしたいとは思っていました。でも大学4年間では知識が身につかないし、どういう風にやっていけばいいのかわからなかったので、大学を出る時に10年後ぐらいのイメージをプランニングしました。
だいたい2カ所くらいのタイプの違うガラス工房で経験を積んで、そのあとは教育機関で少し働き、それから独立しようと。独立するまでの行程を計画したんです。

設計図を組み立てる感じですね。

物心つく頃から父親とよく登山に行っていたので、プランを立てることは苦じゃないんです。むしろその方が計画的に進めることができますから。

そうでしたか。今も登山に行きますか。

今はぜんぜん行ってないですね。高校の時は父と同じ山岳会に入って、よく山に登っていました。高3年の受験シーズンには、父親に誘われてヨーロッパアルプスにも登りましたよ。担任には少し怒られましたけどね(笑)。

受験シーズンにヨーロッパアルプスですか。それはまたチャレンジャーですね(笑)。それで、大学を出たあとは実際にガラス工房に勤められたのですか。

福島にある四季の里ガラス工房という観光向けのガラス工房で吹きガラス体験の指導をしたり、市民講座でもガラス作りを教えていました。

どれくらいの期間ですか。

2年間です。その後は、東京の新島にあるガラスアートセンターという施設で働きました。
そこは野田收(おさむ)さんと由美子さん夫妻の工房でお二人の制作のアシスタントもしていました。工房のプロダクションを作ったり、東京都からトロフィーなんかの注文もありましたね。ここは日本全国から生徒を集めてワークショップをする仕事をしていて、年に1回、海外からアーティストやマエストロを呼んで2週間ぐらいワークショップを開くんです。ヴェネチアのマエストロや、第一線で活躍されている作家さんが来ると、彼らの仕事も手伝わせていただきました。そこではいろんな経験をさせてもらって本当によかったです。

吹きガラスは習得するまでに特別難しい技術はあるのですか。

ガラス自体、扱いづらい素材ではあるんですけど、技法などはすでに確立されているんですよね。ただ、頭で知っているのと直接手を動かしているのと、その仕事に関われるのとでは全然違います。だから第一線で活躍されている人の仕事を直接見れて、しかも手伝わせてもらえたというのはありがたかったですね。それが一人ではなく毎年人が入れ変わるので、いろんなタイプの仕事を請け負って体験できたのは大きかったです。

ヨーロッパのガラス職人たちのような連携プレーも当然ありますよね。

あります。それも人によってガラスを扱う温度帯がまったく違いますから、それぞれに合わせているうちに、いろんなことができるようになりました。こうするとこうなるとか、経験則としてわかってきました。手伝いの方が先回りしていろいろ考えないといけないのでね。窯の状態をセッティングしたり、そういう準備をする側のスタッフでした。

新島はどれくらいの期間いたのですか。

その工房で7年くらいお世話になりました。さすがに7年も島にいると、浦島太郎のような感覚になって(笑)。年に一回しか島を出ないんで、世の中のことがほんとにわかんないですよね(笑)。そろそろ島を出て次を考えないと動けなくなってしまうな、と思って島を出ました。それが28歳のときです。

独立、開発、継承

新島の後は、いよいよ独立ですか。

特になにが決まっていたわけではないんですけどね。とにかくちょっと場所を変えてみようと思って島を出て、そのあとは1年間、能登島で過ごしました。最初はフリーでレンタル工房を使って少し自分の仕事をしながら、いろんな人のアシスタントをしていました。その間に、金沢の卯辰山工芸工房という若手作家育成施設で指導員をしてはと勧められ、5年の任期を勤めました。まだ作家としてやっていけなかったので、生活のためです。

今も奥様と二人のお子さんと能登島で住んでいらっしゃいますよね。能登島に戻られたのはどうしてですか。

絵描きだった叔母が、晩年の3年くらい住んでいた家があって、亡くなってからずっと空いていた家を譲り受けたんです。そこに工房を作って、ガラス製作の拠点として移り住むことにしました。

その工房ですが、溶解炉が特注だと聞きました。

はい。吹きガラスは特に、設備面でランニングコストがすごくかかるんです。ガラスを溶かす溶解炉は本来、365日、24時間、ずっとつけっぱなし、というのが当たり前で、一回火を止めると中の坩堝が急冷され割れてしまうので全部取り替えないといけない、というのが常識なんですよ。だから外出もほとんどできないんです。
その辺を改善したいと思って、窯の設計から、窯屋さんと共同で新しい窯を作りました。

他の溶解窯とどう違うのですか。

コンパクトで、短期間火を止めても同じ坩堝で作り続けることができる溶解炉です。これなら半年に一回くらい取り替えるだけでいいし、長期間外出しているときは火を止めて、帰ったらまた火をつけて温度を上げるだけでいいですから、その分、ランニングコストも減ります。

そういう窯は、他にもあるのですか。

今はないですね。でも、江戸時代では一般的だったみたいですよ。もともとあったものなのに、なんでなくなったんだろうって思ったんですけど、たぶん明治期に国策として工業化されたものが、次に作家に転じる時に工場ベースの設備で移ったんでしょうね。

そのことを、みんな知らないんですか。

これは、僕が趣味でガラスの文献を調べてるうちにわかったことなんです。江戸時代の絵とか見ると、畳の上でガラスを吹いていたりする。ほんとに小さい窯です。でも、そういうのって僕が小学生くらいのときは、まだ残ってましたけどね。

小さい炉がですか。

はい。大阪にも一人だけいたんですよ。連玉っていう中空のビーズの職人さんが。その人は、畳2畳ほどの土間にある窯で、畳に座りながらガラスを巻いてビーズを作っていました。そういうのは結構あるんですが、それが全然伝わっていないだけで、知ってる人は知ってます。

そうでしたか。だとすると、有永さんが開発された窯は、今いるガラス作家さんやガラス職人の人たちだけでなく、これからガラスをやりたいと思う人たちにとっても扱いやすくていいですよね。

そうなんです。僕がそれを考えるきっかけになったのは、上の世代の人たちが吹きガラスは工房を維持していくのが大変だと言われていたからですし、実際、作家だけで食べている人は少ないんじゃないですか。ガラス作家の方でも大学の教員をしたり、どこかの工房に所属している人が多いですし、作っているといってもレンタル工房、一日貸しの工房で創作している人がほとんどですからね。やっぱりプロとして一人で生計を立てていけるような人が増えてほしいです。

おっしゃるとおりです。では最後に、これからチャレンジしてみたいことはありますか。

直近でいうと、工房を広げることでしょうか。あとは、小谷先生に「独立するなら後進を育てることも考えなさい」と言われていたので、スタッフというか、弟子をとることも考えていかないといけないなと思っています。
今、30代くらいの若い子がうちの工房をよく見にくるんです。独立したいという人が。そういう若い人がどんどん増えて、一人でも多くの作家さんが独立して新しい溶解窯を使ってくれれば、その窯や坩堝や炉材を作っている人たちも生き残れます。そうすれば僕自身はもちろん、これからの人たちも助かるし、ガラス業界全体にとってもいいですよね。
だから、今、僕を手伝ってくれている人も、これから始めようとする人も、独立して自分でもできるような状況を増やしていきたいなと思っています。

(取材・文/神谷真理子)

 

ホームページ:https://www.kotaglass.com

email : kotaglass@gmail.com

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