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紺碧の将
Interview Blog Vol.94

照明は僕の天職。多くの人と一緒に光の感動を体感したい。

照明プランナー相羽政明さん

2020.02.10

 

ダンスフロアを華やかに演出するライティングアートを中心に、エキシビジョンや東京ガールズコレクション、ディオール表参道のオープニング、「袋田の滝」など、数多くの照明を手がけてきた照明プランナーの相羽さん。日本のクラブシーンの照明プランナーの第一人者であり、プライベートでは2017年にガラス作家・植木寛子さんと結婚。長年フリーで活動していましたが、国内外からのオファーが絶えず、結婚を機に会社を設立。20代からシングルファーザーとして育ててきた息子さんが父親の後ろ姿に憧れ、会社のスタッフに。今は昨年誕生した愛娘の天照ちゃんにメロメロだという相羽さんに、これまでの来し方をうかがいました。

夢の花火師から照明の世界へ

パートナーである植木寛子さんは、相羽さんの照明に魅了されて弟子入りを希望されていたそうですね。植木さんいわく、「他にはない上品な照明で、かつ踊りたくなるような照明」だそうですが、相羽さんが照明に魅了され、その世界に入ろうと思ったきっかけはなんですか。

 照明につながることと言えば、小さいころに憧れた花火師でしょうか。僕は江東区富岡生まれで、祖父が隅田川の花火大会の復活委員や審査員をやっていた関係で、よく花火を見に連れて行かれました。小さいころはずっと花火師になりたいと思っていたんですよ。でも、あの世界は一子相伝なところがあって、そう簡単にはなれないんですよね。やんちゃをして高校を中退したときに、将来のことを真剣に考えて、手に職をつけようと電気工事士の見習いになりました。この先、何がなくならないだろうと考えたら、電気はなくならないだろうと思ったからです。おそらく花火の影響があったんでしょうね。

そのまま電気工事士になるのではなく、舞台照明の仕事に転向されたのはなぜですか。

 実は高校のころからダンスをやっていて、電気工事士見習いとして働いていたときも、某有名アーティストのバックダンサーをやっていたんです。だからクラブなどの舞台照明にはもともと興味があって。2年間、電気工事士見習いとして働いたあと、たまたま小笠原純さんという照明の世界ではトップクラスの方がスタッフを募集しているのを知って、面接に行ったら運良く合格して働くことができました。お世話になったのは1年間だけでしたが、僕以外、全員女性スタッフだったので可愛がっていただきましたね。舞台照明の基礎は、ほとんど小笠原さんから学ばせていただきました。退職したあとは、フリーで働きました。21歳のときです。

かなり早い段階でフリーになられたのですね。どうやって仕事を得たのですか。

 照明の設備が整ったお店に面接に行きました。新宿2丁目のゲイクラブで雇ってもらえて、5年間、専属で働かせていただきました。ダンスショーの照明です。プランニングから新しい機材の使い方まで、すべて独学で覚えました。当時は今のように専門学校のような学ぶ場所がありませんでしたから、現場で覚えていくしかなかったんです。

「ライティング」第一人者

一口に照明と言ってもジャンルはいろいろありますよね。ミュージカルやコンサート、あるいは能や歌舞伎などの舞台照明から、商業的なものまで。相羽さんはダンスがきっかけで舞台照明を選ばれたということですが、当時からダンス音楽の照明という専門的なスタイルは確立されていたのですか。

 いいえ。日本では僕が初めてだと思います。当時はDJさんの見習いがDJの仕事を覚えるために照明をやっている程度で、専門職ではありませんでした。でも、海外ではすでに「ライティング」という職業は確立されていて、フライヤーやポスターにもDJの下にライティングの名前が記載されていました。ちょうどダンスをやっていたときに、3ヶ月間、ニューヨークへ修業に行ったんですけど、「このままダンスをやっていても、地元でダンス教室を開くくらいしか仕事がないんだろうな」と、ふとご婦人方にダンスを教えている映像が浮かんでしまって(笑)。それで、舞台照明を仕事にしようと考えを改めたんです。今でこそ、EXILEのHIROさんのようにダンスパーフォーマーとしても起業は可能ですが、当時はダンスが事業になるなんて思いもしませんでしたから。

今はフライヤーにも「ライティング」として記名されているんですね。

 ええ。おそらく僕が初めて名前を載せてもらった人間だと思います。28年前にはそういう概念はありませんでしたし、照明をやりたいという若者はあまりいなかったように思います。今は若い人たち、特に女性の照明志願者が多いんですよ。好きなアーティストの照明をやりたいという理由で。

ロールモデルがないとなると、自分のスタイルを確立するまでは大変ではなかったですか。

 楽曲と照明をうまく合わせられるようになるまでは大変でした。でも、だんだん感覚でわかってくるようになると面白くなってきました。今はほとんど音楽もデータですが、昔はレコードを回していましたから、DJさんがレコードを選んでいるときから照明の色を決められたんです。レコードもCDもジャケットを見るだけでイメージができる。しかも、レコード盤の溝を見れば、溝の薄いところは音も薄くなっているからブレイクに入るところだとか、ここからビートが入るとか、そういうことが感覚的にわかってくるんです。それで照明と音楽がぴったり合うと、ほんとうに面白いですよ。特にクラブは生ものですからジャズのセッションと同じ。即興です。

一発勝負、というわけですね。それは緊張感もあって興奮しますね。

 そうなんです。即興で作ったものでお客さんが盛り上がってくれるのは嬉しいですし、自分も楽しい。僕がダンスミュージックで一番楽しいと思ったのは、まったく目的の違う人同士が同じ時間を同じ音楽で盛り上がれる、ということです。たとえば、ナンパが目的で来ている人もいるだろうし、お酒を飲みに来ている人もいる、ただ友達に会いに来ている人もいれば、純粋に音楽やダンスを楽しむという人もいる。そういう人たちが一緒になって盛り上がれるのはクラブしかないんじゃないかと思いますね。いい空間だな、と思います。

クラブ以外での照明もされていますね。

 エキシビジョンやクリスチャン・ディオールの表参道店のオープニングの照明もさせていただきました。茨城県の「袋田の滝」の照明を最初にやったのも、実は僕なんです。南海イベントや、京都舞鶴の赤レンガ倉庫のライトアップもそうです。東京ガールズコレクションは、結構長くお世話になっています。

そういうお仕事は自ら獲得されたのですか。

 演出家の方からお話をいただきました。今も少しありますが、以前は有名ブランドショップが顧客に向けてDJを入れたクラブパーティーを開くことが多かったんです。当然、照明も呼ばれますよね。そういう場でお声をかけていただくようになりました。それと、先輩DJの方から誘われてマネジメント事務所に所属したこともよかったです。仕事の幅が広がりました。

新規事業と新しい家族

株式会社相羽という照明の会社を興されたのはご結婚された後と伺いました。

 はい。仕事が増えて来たこともあって法人化することにしました。といっても僕はマネジメントは苦手で、経営は妻にやってもらい、息子をスタッフに迎え入れました。

男手ひとつで育ててこられたという息子さんですね。お父様と同じ道を歩まれているとは、感心します。お幾つですか。

 24歳です。中学2年生ぐらいの頃でしょうか。「オヤジの仕事を継ごうかな」って言ったんですよ。よく現場に連れて行きましたからね。未成年なのに(笑)。「ほんとうに照明やりたいの?」って聞いたら「やる」って言うんで、それなら電気工事士の免許も持っていた方がいいから高校も電気科に行けと。その後は、照明ではなくロボット工学を学ばせました。その方が設計もメンテナンスもプログラミングもすべて自分でできますからね。今は照明もコンピューター制御で作動させる時代です。プログラミングができるのは大きな強みですし、実際、僕より優れていますよ(笑)。今は六本木にあるエイベックスが運営する「SEL OCTAGON TOKYO」というクラブを彼に任せています。

昨年、お嬢様が誕生されて「天照」と命名されたと聞いたときは驚きました。抱っこ姿も微笑ましくていいですね。照明をしている姿は想像できませんが(笑)。

 そうですか(笑)。可愛くて仕方ないです。僕以外にも、クラブ関係者は子煩悩の人が多いですよ。子だくさんの人も結構います。僕は小さい頃から生き物が大好きで、子供のころは真剣にムツゴロウ王国で働きたいと思っていたこともあったんです。母親に止められましたけど(笑)。水族館や動物園もよく行きます。海外に行ったときも必ず行きますよ。

生き物が好きな人は優しい人が多いと言われますね。息子さんのことを思っても、相羽さんは愛情深い方なんですね。クラブで働く人たちも、きっと相羽さんと同じなんだと思います。それでも世間の人に誤解されることは多いんじゃないですか。

 多いですね。クラブで働いているというだけで悪く見られがちです。でも、本当は真面目でいい人が多いんですよ。そうじゃなければ、この世界で続けていくことはできません。以前は風俗営業と見なされていて、規制も厳しかったですし、世間の風当たりも強かった。そういうものに耐えられないとやっていけないんです。今は規則も緩和されて、職業的にも認知度も上がって良くなったと思います。以前に比べて、随分やりやすくなりました。

不易流行のオリジナル照明

照明も今はコンピューターで操作するようになりましたが、それ以外にも、革命的な照明というのはあるのでしょうか。

 最近、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)の方のイベントを担当したんですけど、体は動かないのに目だけでDJをされて、ビックリしました。アイコンタクトで操作するんですよ。ここまで技術は進んだのかと驚きました。そのうち、脳波でも動かせるようになるでしょうね。そうなると、イメージするだけで照明ができてしまう。そういう時代が、いつか来ると思います

 それに、新しい電球が開発されると照明も進化します。たとえばLED。以前は照明も赤と緑の光しかなく、出せる色はオレンジが限界でした。でも、ブルーのLEDができたことで、フルカラーの演出ができるようになった。LEDのスクリーンがそれです。つまり、ブラウン管テレビと同じ原理なんですよ。照明や機材が進化するのは僕らの業界では日常茶飯事。常に意識していないと取り残されてしまいます。毎年、各国で新しい照明の展示会があり、僕も数年前にドイツの展示会に行きました。

技術革新が進む中、今後、どういう展開を考えていらっしゃいますか。

 特別なことをするつもりはありません。今までのように、大きい小さい関係なく、どんな仕事も存分に楽しみたいですね。この仕事は僕にとって天職です。よく若い人たちから「相羽さんが照明をやっているとダンスをしているみたい」と言われます。それは僕がダンスをやっていたからで、自分が本当に楽しいと思ってやっているから体が動くんだと思うんです。自分では気づかなかったけど、後輩に言われて気づきました。僕が照明をしていると、お客さんもわかるみたいですね。「この照明、相羽さんでしょ?」って従業員が訊かれるそうです。だから、これは自分しかできないオリジナルの照明なのかなと思います。僕が好きなのは、やっぱりお客さんと一緒に盛り上がれるクラブです。新しい技術も取り入れつつ、今後も引き続き、大好きなクラブ照明や空間演出に力を入れていきたいと思います。

(取材・文/神谷真理子)

 

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