いいときも悪いときも同じ
第25話
順逆不二
今日はみゆが仕事で関わったことのある、著名な栄養学者の講演会だ。うーにゃんも含め、家族総出で来ている。
「あ、あの、ペットはご遠慮いただいているのですが」
受付係の女性はうーにゃんを抱っこしているパパにそう言った。
「これはペットじゃない。うーにゃん先生だよ」
パパは憮然としながら語気鋭く答えた。
「……はあ?」
「あのねえ……。君はうーにゃん先生をご存じないのか。山田部長に了解をもらっているから、確認してくれないか」
パパがそう伝えると、女性は慌てて奥の方へ姿を消した。やがていかにも人が良さそうな初老の男性が現れ、ほかの家族には見向きもせず、うーにゃんに頭を下げた。
「これはこれはうーにゃん先生、ようこそおいでくださいました。先だっては私どもの講演でお話しいただきまして、誠にありがとうございました。おかげさまで大変盛況でした」
山田部長はうーにゃんを下にも置かないもてなしぶりで、幾度もペコペコと頭を下げている。
「ったく、あいつ、うーにゃんにだけペコペコしやがって、みごとに俺たちを無視していたぞ」
「いいじゃないの。ちゃんと入れてもらえたんだから」
講演のあと、みんなで近くのカフェに寄った。「テラス席はペット可」と張り紙がある。最近、こういう店が増えた。
「今日の話、良かったでしょう?」
みゆが言うと、皆、ふむふむと納得した。
「食べ物についてかなり勉強しているし、仏教とからめているところがユニークだったな。栄養学も西洋のものから日本の民間伝承のものまでバランスよく学んでいる。彼女が引っ張りだこというのはわかるよ」
「実際、H先生の言うとおりにして、大病を患った人が治ったケースがいくつもあるみたい」
ひとしきり、みんなで感想を述べあった。
「H先生に直接話を聞く機会があったんだけど、若い頃はかなり苦労したみたいだよ」
「苦労知らずのみゆとはちがうな」
「きちんとした栄養学を学ぶために専門学校へ行ったんだけど、母子家庭でたいへんだったから新聞配達をしながら寮生活をしたんだって。毎朝3時起きだったらしいよ」
「この時代に若い女の人が新聞配達? それだけで覚悟が伝わってくるよな。今は仕事を選ばなければなんだってあるし、楽しようと思えば、楽な仕事はいっぱいあるんだから。苦労知らずのみゆとはちがうよな」
そう言ってパパは意味ありげにみゆを見た。
「それがいちばん活かされているって言ってた。いまこそがんばらなきゃと思って必死に勉強したらしいよ」
意味ありげなパパの視線になにも感じないみゆは、感動した面持ちでそう答えた。
「若いときの苦労は買ってでもしろって言うけど、ほんとうだよな」
「その人がすごいのはね、そのとき、苦労しているなんてこれっぽちも思わなかったんだって」
「へぇ〜、苦労知らずのみゆとはちがうな」
なおもみゆはスルーする。
「松下幸之助も言っているわね。『好景気よし、不景気さらによし』って。今日の日めくりカレンダーにそう書いてあったわよ」
日めくりカレンダー担当のママがそう言った。
「順逆不二っていう言葉があるけど、まさしくそのとおりだよ」
「ジュンギャクフジ? パパ、なにそれ?」
「うーにゃん先生、みゆに説明してやってくれ」
「順境も逆境も結局は同じということだよ。逆境のときって大変だと思うけど、あとになって振り返ると、それがあったから今があると思えることが多いんだよね。だから、良いことと悪いことの区別って、すぐにはつかない。長い目で見ないとね」
うーにゃんはそう説明したあと、ミルクをペチャペチャ舐めた。
「H先生も新聞配達をしながら勉強した時期があったから、今こうして世の中の役に立つことができて、みんなから感謝されて充実した日々をおくることができている。もし、みんなと同じ家庭環境だったら、ちがった道を歩んでいたかもな」
「じゃあ、わたしみたいに、苦労知らずの人はどうすればいいの?」
さっきはスルーしたくせにと内心思いながら、パパは言った。
「そういう人は順境を活かせばいいんだよ」
「ふ〜ん……」
わかったような、わからないような表情をしたあと、みゆは「ま、いっかー」と言って笑った。みんなもつられ、テーブルに笑いの渦ができた。じつにお気楽な家族だが、これでいいのだ。順逆不二なのだから。