重い荷物をいったん下ろす
第9話
下載清風
「ったく! どっちもどっちなんだよ。世の中には生きたくても生きられない人がいるっていうのに……。そんなに死にたいやつはとっとと死んじまえってんだ!」
パパは新聞を折りたたみながら苛立たしそうに悪態をつき、席をたった。
みゆとうーにゃんは顔を見合わせた。
「気持ちはわかるけど、問題発言だよね。この前も、不眠症の人がうらやましいとか言ってたし……。実際にそういう人が聞いたらどんな思いをするか」
みゆはそうつぶやきながら新聞を開いた。まだ、あの事件が大きく報道されている。自殺願望者を次々と殺害した猟奇殺人事件だ。
「ねえ、うーにゃん。わたしもたいへんだなあって思うことはあるけど、死にたいと思ったことは一度もない。どうして死にたいと思うんだろうね」
そう聞かれて、うーにゃんははたと困った。そもそもネコには自殺という概念がない。悩みもない。知恵と知識をもってしまったうーにゃんは多少の悩みがあるものの、ほとんどのネコはあっけらかーのかー。苛酷な現実があっても、それを淡々と受け入れ、その日を生きるだけだ。
「うーたちネコから見ると、ニンゲンは重たい荷物を背負い過ぎている。だからこそ、この星の支配者になれたんだと思うけど、要らない荷物まで背負い続けているとしたら、やっぱり考えものだよね」
「要らない荷物ってなに?」
「人からよく思われたいとか、体調がひどく悪いのに仕事を休めないとか、社会や家庭での役割を果たさなければいけないとか、お金の悩みとか……。特にお金の悩みは尽きないようだね。老後の生活費が二千万円不足するとか言ってるけど、長生きできるようになったことを喜べばいいのに……。ニンゲンは心配ばっかりしている。日本人の特徴かもしれないけど。とにかくニンゲンって、悩みのデパートみたいだよ」
「たしかにそうかも。でも、そうとわかっていても、それから逃れられないんだよね」
「下載清風っていう言葉があるんだけど……」
「アサイセイフウ?」
「載せている物を下ろすと肩の荷が軽くなって清々しい風が通りすぎていくというような意味かな。たとえば、小さな舟に荷物をたくさん積んでいたら、沈みそうになるよね。そのままなにもしないで沈んでしまうのはおかしいでしょう? いったん荷物を下ろしたら軽くなることがわかっているのに」
「でも、どうやって下ろすの?」
「仕事も煩わしい人間関係も自分の役割もいったんストップしちゃえばいい。一週間くらい、なにもしないでネコのようにボーッとするの」
「うーにゃんのように?」
「うーはあんまりボーッとしてないよ」
「わたしもボーッとしたいときがある」
「ここが肝心なんだけど、その間、自分を受け止めて支えてくれる人がいるってことが大前提なの。話を聞いてくれる人。場合によっては必要最小限の助けをしてくれる人」
「たとえば、どんな人?」
「それはいろいろだよ。家族でも恋人でも友人でも同僚でも上司でもだれでもいい。親身になって話を聞いてくれるだけでもいい。あらためて思い巡らして、そういう人がひとりもいないとしたら、それまでの人生がまちがっていたということだね。20年以上生きていて、せっぱつまったときに孤立してしまう人は、どこかに問題があった。原因はひとつやふたつではないと思うけど、そうならないためにするのがほんとうの勉強なんじゃない?」
「たとえばどんな?」
「ほんとうは、そういうのってあえて勉強なんかしなくても、家庭のなかで教えてくれた。でも、今は親も未熟だから、そんなこと期待できないでしょう? 学校の先生だって教科書に書いてあることは教えられても、ニンゲン教育はできない。人の心に関わるのはいけないとか言っちゃって」
「あ、それ、パパが死ぬほど嫌いな日教組でしょう?」
「そう(笑)。でも、ニンゲンには素晴らしい遺産がある。先人の知恵の結晶が。ずっと読み継がれている書物はだいたいそうだよ。『論語』もそうだし」
「論語って、あの説教臭いやつ?」
「今から2500年も前に生きた孔子の言葉や行いを弟子たちがまとめたものだけど、現代にも通用するものばかり。ニンゲン関係を円滑にしていくための知恵の結晶なんだよね。それを学んだら、孤立することはぜったいないよ。うーも読んだことがあるけど、ニンゲンという生き物を観察しているなあって感心するくらい」
「そういえば、去年だったか、パパがこれ読みなさいって本を送ってきたことがあったわ。もう一回きちんと読んでみようかな」
「ひとつ頭に入れておいた方がいいと思うんだけど、いい薬は毒にもなる可能性を含んでいるってこと。論語だって、使い方によっては為政者や立場が上の人が悪用できるんだ。歴史的にもそういう事例はたくさんあるしね。それに、子供の頃に過剰に道徳をすり込まれると、トラウマになってしまうこともあるから、そういうことを意識しながら活用すればいいんじゃない?」
「そうか、まずは人間の基礎をつくり、理解し合える友人をつくり、それでも行き詰ったときは下載清風ね。こんど、友だちに相談されたらそう言ってあげようっと」
みゆがそう結論づけると、直後に隣の部屋でドスンドスンという音がした。
「あっ、パパが四股を踏んでいる」
「気持ちを鎮めるときはいつも四股を踏むよね」
「お相撲さんとちがうところは、ときどきふらついて壁にぶつかったりすること」
「アハハハハハ。かっこわる〜」
ふたりが気持ちよく笑っていると、パパの顔がドアの隙間からニュッと現れた。
「おまえたちはお気楽だな。世間には生きるのが苦しくて死んでしまいたいという人もたくさんいるっていうのに」
パパは深刻そうな表情でそう言った。
うーにゃんとみゆは、顔を見合わせてもう一度笑った。