生きているだけで奇跡
第7話
独坐大雄峯
都会の夜だから、星はほとんど見えない。まして、今夜は新月。ひんやりとした乾いた秋の風が頬を撫でる。
みゆとうーにゃんは、新月の夜、マンションの屋上に上がって、周りを見渡しながらおしゃべりをする。新月の夜に伐採した木を使うと火事にならないし虫も食わないと聞いたことがある。新月は命をリセットし、強くする効果があるのかもしれない。そう思い込んで、みゆは新月の夜ごと、うーにゃんを連れて屋上に上がっている。
「きもちいいね、うーにゃん」
「うん」
うーにゃんは、手すりの上に乗り、広大な森のシルエットに見入っている。
「海外旅行もいいけど、ふだん見慣れたところも、見方を変えると新鮮だよね」
「……うん?」
うーにゃんは、上の空だ。
「ねえ、うーにゃん、どうしたの? さっきからわたしの話、ぜんぜん聞いてないじゃない」
「あ、ごめんごめん。あまりに気持ちよくて、ついうっとりしちゃった」
「こうしていると、うーにゃんがうちに来た日のことを思いだす。うーにゃん、捨てられてたんだよね。片手に載るほどガリガリに痩せて」
「覚えているよ、その日のこと。もうお腹が空きすぎて死ぬかと思った。でも、みゆと目が合って、あ、この子に訴えれば助けてくれるって思ったんだ」
「パパは拾っちゃダメって言ったけど、わたしはあのとき、ピピッと直感が働いた。この子と気が合うって」
「うん、みゆには感謝してる。どんなに感謝してもし足りない」
「捨てられていたネコが、なんだか難しい言葉を覚えて、いまじゃ優雅な暮らし。世の中どうなっているんだろうね。それに比べて、わたしはあくせくと仕事ばかり。奇跡でも起きて、玉の輿に乗れないかなって思っちゃう」
「みゆ、もう奇跡は起きてるよ」
「奇跡なんかぜんぜん起きてないよ」
「ほんとうは奇跡が起きたからこうして生きているのに、それを忘れちゃいけないよ。独坐大雄峯って聞いたことある?」
「ドクザダイユウホウ? そんな難しい言葉、知るわけないじゃん」
「ずっと昔、あるお坊さんから、いったいなにが奇跡なのかと質問されたもうひとりのお坊さんが独坐大雄峯と答えたの。ひとりでこの高い山の峰に座って、今この瞬間、生きていることが奇跡で、とてもありがたいことだって答えたんだよ」
「ふーん、ここはマンションの屋上だよ。山じゃない」
「場所の話じゃないよ。たった今、ここに生きているというのが奇跡みたいなものだってこと。宝クジに100回くらい連続で当たるより少ない確率をくぐり抜けて、この世に生まれてきて、それからもいろんな危険を乗り越えて生きている。みゆが生まれてきたことによって、けっきょく生まれてこなかった人が数えきれないほどいるんだよ。何十兆人とか、そんなレベルじゃない。それって奇跡でしょう?」
「ふ〜ん、たしかにね」
みゆは、思いっきり深呼吸する。それだけで充電されたように感じた。
そして、ふと思った。どうして、ここにいるのだろう? なんで生まれてきたんだろう? 眠っているときも心臓は勝手に動いているし、風邪をひけば熱が上がって菌をやっつけてくれる。体温が上がれば汗をかいて熱を放出し、寒くなれば体が縮んで熱を逃さないようにする。へんな物を吸うとくしゃみをして外に出し、目に埃が入れば涙で流す。ぜんぶ、自分がやっているわけじゃない。いったいだれが自分を動かしているのかな? だれなんだろう。それって神サマなのかな……。
──なにかに生かされている!
突如、雲間から太陽が顔を現したかのように、みゆの頭のなかでひらめくものがあった。具体的にどういうことかわからないが、うーにゃんの言うとおり、自分は奇跡によってこの世に生きているということがなんとなくわかった。そう考えると、仕事でのちょっとしたトラブルなんか、ちっぽけなものに思えてきた。
──独坐大雄峯かぁ。ほんとにそうなんだね。
星は出ていないと思いこんでいたが、目を凝らすと、夜空にいくつか光っているものが見えるような気がした。無性に満天の星を見たくなった。
「ねえ、よくパパが言うじゃない。空の大きさを見よ、心の襞を観よって。空の大きさを見よというのはわかるけど、どうやって心の襞を観るんだろうね」
みゆはうーにゃんに問いをぶつけた。
「たしかにパパはそう言ってるね。目に見えるものだって案外見落としているし、ましてや見えないものを観るのは難しいって」
「たとえばさ、この夜空には星がないけど、山のなかとか行けば、空が星だらけということもあるじゃない。見えるか見えないかはべつにして、宇宙に星がたくさんあることは事実だよね」
みゆはなにかをつかみかけている。
「うん。それと同じように、心のなかが動いているのも事実だよ。だって、嬉しくなったり哀しくなったり、怒りたくなったりウキウキしたりするもの。心のなかは見えないけど、なにかが動いているのはまちがいない」
「それを観なさいってことだろうね」とうーにゃん。
「パパには自分の心のなかが見えるのかな」
そう言ったあと、みゆの脳裏に、四股を踏んでガハハと笑っているパパの姿が映った。どう考えても、心の襞が観える人には思えない。
答えがどんどん遠ざかり、暗い夜空に吸い込まれていった。
でも、いい気持ちだった。どんどん心が浄化されているような気がした。
ふと、横を見ると、うーにゃんは手すりの上で静かに寝息をたてて眠っている。息を吸うたび、体がほんのわずかだが、膨らんでいる。
それも奇跡だと思った。そして、うーにゃんの狭いひたいをそっと撫でた。