ほかのだれでもない自分
第2話
一無位真人
うーにゃんは、みゆの足音だけで、彼女の心の状態がわかる。
「ねえ、うーにゃん先生」
やっぱりきたかぁと思いつつ、うーにゃんは眠ったフリをしていた。
「ねえ、うーにゃん先生ってば」
うーにゃんは、むにゃむにゃ、すーすーと寝息のような音をわざとたてた。
「わかってるんだから、眠ったフリをしてるのは」
みゆもうーにゃんの呼吸だけで、眠ったフリをしているのがわかる。かれこれ12年のつきあいになるのだ。
「どうしたの?」
しかたなく、うーにゃんは聞いた。どうせまた相談かグチにちがいない。先生と呼ぶときはいつもそうなのだ。
「この前、囲碁クラブに入ったって言ったよね」
──囲碁ガールとかいう女子が増えているらしいけど、まさかみゆが囲碁を始めるとはねぇ……。
登山、釣り、鉄道、囲碁、将棋……、男ばかりだった分野に女性が進出するようになって、あっという間に世の中の勢力図は変わった。男はますます隅に追いやられている。ヨーイドンで勝負したら、だいたい女の方が優れていることが多いのだから、当然といえば当然の帰結でもあるが。
うーにゃんはそう思いつつ、耳を立てて前に向け〝聞く耳〟にした。
「そこに来ているオジサンがすごくいやみなんだ。だって、なにかというと学歴とかサラリーマン時代の肩書きを自慢するんだよ。僕はT大を出ているんだけど囲碁の基本を教えてやろうかとか、僕はM商事で営業部長をやっていたからなんでも相談してよとか言っちゃって。そんなの聞いてないって。それだけならいいけど、あの人は三流大学出だからダメだとか、中小企業に勤めている人に優秀な人はいないとか、いつも人を見下しているんだ。みんなから嫌われているのがまったくわかない。もう近くにいるだけでジンマシンができそう」
──ははぁ~、そんなことか。
ニンゲン特有の、けったいな現象である。
「笑って済ませばいいんじゃない? どうせ他愛のないことなんだから」
「笑って済ませるレベルはとっくに超えているよ」
「かといって、そういうことは言わないでほしいとも言えないでしょう?」
「……まあね」
「みゆには悪いけど、気にしているみゆもどうかと思うよ」
「どうしてよぉ?」
みゆは、きっとなって言い返した。
「その人は自分に自信がないから、そういうことを言っているだけ。自信がある人は、自分をネタにしてみんなと笑うことだってできるからね」
「……」
「だから、その人の言うことは、冗談と思って受け流すか、子供じみた虚栄心だと思って大きな心で包んであげればいいんだよ」
「で・き・な・いっ!」
──しょうがないなあ、もう……。
うーにゃんはそう思いつつ、息を整え、命の恩人であるみゆにこう言った。
「一無位真人っていう言葉があるんだけど」
「え? いちむいのしんじん? なに、それ」
うーにゃんはときどき禅語を使ってアドバイスをしてくれる。飼い猫にアドバイスしてもらうのは癪にさわるが、ときにうーにゃんのアドバイスは一服の清涼剤になる。
「ニンゲンはほかの動物より自分たちが偉いと思っているけど、うーから見れば、ニンゲンは虚栄心とか、よぶんなものばっかり背負い込んでいるように見える。ありのままの自分でいれば楽なのに、どうしても人から良く見られたくて、いろんなものを身にまといたがる。そのオジサンもそうだよ。身の丈に合わない貝殻を背負って歩くヤドカリみたいで、こっけいだわ」
「だから、そういうオジサンとはどう接すればいいのよ」
「ニンゲンはだれしも虚栄心を持っている。まずはそれが自分のなかにもあるということを認識することだよ。みゆにも虚栄心、あるよね?」
「うーん、たしかにあるかも。無意識のうちに人と比べて優越感や劣等感に浸っていることがあるから」
「だれにも虚栄心はある。それはどうやってもなくすことはできないんだよ。厳しい修行を積んだ人だって、完全になくすことはできない。まずは、それを肝に銘じること」
「そういう話、この前もしていたね」
「ニンゲンだけがほかの生き物とちがうという話? 実際、ニンゲンだけがもっている特徴って、山ほどあるよ。宇宙的な視点で見れば、地球なんて砂粒にも満たないし、ニンゲンを含めた生き物なんて微生物みたいなもんだけど、ニンゲンはアポトーシスを誘導する役割を担わされているから……」
「アポトーシス?」
「あ、いけない。それはまた別の話」
「要は、自分にも虚栄心があることを自覚し、オモテに出てきそうになったら、そのオジサンのことを思い出せばいいってこと?」
「そう。それに虚栄心って、欲と同じで成長する源にもなる。ただ、それがオモテに出すぎるとカッコ悪い。そのオジサンみたいにならないよう、用心しなきゃ。いいお手本も悪いお手本も、役に立つという意味では同じだよ」
「そうか、うーにゃんに言われると、なんとなく納得してしまうなあ」
「それに、人生百年時代になった今、いつまでも学歴やサラリーマン時代の肩書が通用するはずがないじゃない。それがわからない人は、結局、あとあと苦労することになるよ」
「じゃあ、その人ははるか昔の栄光をいつまでも忘れられない、愚かな人なの?」
「ある意味ね。学校の成績がいいから優秀とは限らない。大企業に入ったり、官僚になったからといって優秀とは限らない。ほんとうに優秀な人とは、肩書とかじゃなく、人間性そのものでほかの人を心服させられる人のことを言うんだよ」
うーにゃんはそう言って耳を伏せ、眠る態勢に入った。