ときにはフリでも・・・。
あついあついと言ったって、もうすでに立秋はすぎました。心なしか、早朝の空気はかすかに秋の香りを含んでいるし、夕暮れをすぎて夜のとばりの落ちるのも少しばかり早くなったような気がします。
世の中の騒動とは関係なく、季節はきちんと巡っているのですねぇ。朝夕に肌をなでる風や、くすんでゆく草木の緑を眺めて思います。
テレビをつければなんだか騒々しいし、新聞を開いても明るさに欠ける話題が多すぎるような。だからというわけではありませんが、嫌なニュースは極力見ないよう、聞かないように努めています。そうでなくても世の中は情報の渦。向こうから勝手に押し流されてきます。
人さまの玄関を勝手にあけて入ってきて傍若無人に振舞ったり、押入れといわずタンスといわず、ひっそりと仕舞ったものを無理やり引きずり出すような行いをする、失礼極まりない人たちもいます。そんなことをするよりも、もっと楽しいことはあるはずなのに……。
そういうわけで決めました。クサいものには蓋をしようと。いいえ、蓋をするだけでは臭ってきます。近寄らないことが一番でしょう。自分の身は自分で守るしかないのですから。
とはいえ、この国に、この惑星に住まわせていただいている以上、世の中の情勢に無関心とはいきません。付かず離れずの距離を保ちつつ、自分の居処を心地よいものにしたいと思います。余力があれば、近しい人やお世話になっている人に、わが手をお貸しすることもできるかもしれません。できることは極力かぎられますが……。
くり返す日常にあるささやかな幸せを数えてみると、ひとつやふたつは必ず見つかるもの。ひとつやふたつどころか、ささやかなものならたくさん見つかる。見よう、見つけようとすればですけれど。
わたしの場合、決まった時間に起きて散歩に出かけられたり、窓から流れてくる風が心地よかったり、見慣れた街並みに新しいお店を発見したり、野良猫が甘えて近寄ってきたり、店先で目があった花を買って帰ったり、ベランダの植物がいつになく元気だったり、たまたま観た映画のタイトルを読んでいた本の中に見つけたりと、ほんとうにちっぽけでささやかな喜びではありますが、そんな場面に遭遇するたびに思わず「ふふふ」と笑ってしまうのです。
先日、無沙汰をしている知人から、うれしい連絡がありました。
「ふと連絡したくなりました。いかがお過ごしですか?」と。
「ご連絡ありがとうございます。まいにち元気なフリをしています」と返した次第。
するとその人は、
「元気なフリ、ときにはそうやって場を収めることもありますね。 わたしは優しいフリをしています(笑)」
優しいフリっていいですね。フリでもなんでも、優しくされたらうれしいものです。優しさがなければフリもできないと思います。事実、その人はいつも笑っているのでしょう。お顔がすっかり笑顔です。
フリも板に着けば、いつしかそのものになってゆくように思います。
元気なフリ、優しいフリ、楽しいフリ、幸せなフリ、夢が叶ったフリ。
たとえフリでもかまわない。そんな人といればいい気分になるでしょうし、お互いに心地いい時がすごせるような気がします。
それにきっと、そんなところには幸運の女神もやってきそうです。
もちろん、ひとりになったらフリの仮面を剥がしてもいい。
そうやってときどきへそ曲がりな自分が顔を出すのも、ご愛嬌じゃあないでしょうか。
天の気だってきまぐれだもの。晴れる日もあれば雨の日もある。
辻仁成さんが書いていました。
「幸福って毎日が楽しいことだけじゃないね」って。
ほんとうにそう思います。世の中、思いどおりいくことばかりではありません。冬の寒さがあるから春の暖かさがありがたいと思うのでしょうし、夏が暑ければ暑いほど秋風の涼やかさが身に沁みます。
考えてみれば、これまでの良いことも悪いことも今につながっているわけですから、毎日のささやかな出来事はすべて幸福のタネなのかもしれず、幸せの花が咲くか咲かないかは自分しだい。
そう思えば、ときどきフリをするのも許されてもいいような気がするのです。