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ココロバエ
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食えない女のマズイ話

2020.07.08

 思えば好奇心に煽られるまま、衝動的に突き進んできた半生だった。計画性などという人間的な思考はカケラも持ち合わせておらず、そのときそのときの気分と人目ばかりを気にした行動の連続であったから、当然、失敗を繰り返してきた。にもかかわらず、その原因を他責にする悪知恵だけはあったらしく、自ら悔い改めるなどとは考えも及ばない、なんとも食えない女だった。まわりはさぞ迷惑千万だっただろう。

 

 しかし、よくよく考えてみるとその一部始終も、近ごろ「もしや…」と思わせるある症状が招いた顛末だったのでは? という思いに行き着くのである。

 責任逃れの言い訳やもしれず、はっきりそうと診断された人からすれば、「いっしょにしてくれるな!」と怒りを買いそうで恐ろしいのだが、ここは自分のためと家族のために少々胸の痛む言い訳をしようと思う。ちょっと長くなるが、お付き合い願いたい。

 

「発達障害」という症状が世間で認知されるようになったのは、ここ数年のことらしい。主に子供に多く見られる症状で、身体的な発育不全に加え、学習能力、言語や行動に不全がみられるそうだ。生まれつき脳に何らかの障害があり、落ち着きのなさや集中力の欠如(興味の対象によっては集中力が増す)、コミュニケーションがうまく取れないといった症状により、周りから孤立してしまうという。それ以外にもいくつか症例はあり、ともすれば大多数の人間に当てはまるのじゃないかと思うくらいだが、未熟な子供にとっては辛いだろうから、まわりの理解は大いに必要だろう。

 

 その発達障害である。今は大人にも多くみられるらしく、発達障害と気づかないまま大人になってしまったことで、まわりも巻き込む悲劇を引き起こしてしまっていることもあるそうだ。

 病名など細かい説明は専門家にゆずるとして、その大人にみる発達障害、自分自身にも当てはまるところが多分にあって驚いた。幼少期からの生きづらさは、ここに発端があったのかと思うほどだった。

 某新聞に元アナウンサーでエッセイストの小島慶子さんが自身の発達障害を告白していたのを読んで、「ああ、わたしもおなじだ」と、そこでようやく合点がいったのである。

 

 まず、「じっとしていられず思ったことを衝動的に口にしてしまう」という症状にも思い当たる節があった。

 保育園、幼稚園、小学校低学年と、たびたび担任から「興味のあることはものすごく集中するのに、それ以外のことはまったく集中力に欠ける子だ」と注意されたと、母がよく言っていた。言いたいことを言い、聞きたくないことは聞かない子供だった。

 ぼーっとしているのは日常茶飯事で、家族で出かければ決まって迷子になったし、習い事のピアノで居残りを言い渡されても待っているうちに寝てしまい先生を怒らせるという不始末。さらにはあやうく人さらいに連れて行かれそうになったことも何度かあった。それでも親やまわりの教育もあって、なんとか普通の子と並ぶくらいか、頭ひとつ出ることもあり、表面的にはなんら問題はないように見えたと思う。

 ところが生まれ持った性質というのはどうしようもないらしく、ひんまがった木をまっすぐにしても、もとに戻ろうとする性質が働くから建具には向かないのと同じで、性に合わないことを強いられた身体はところどころでネジが外れ、そのたびにポンコツぶりを晒すのである。極度の緊張からか、幼少期は自家中毒症状を頻発したし、夜尿症は小学校高学年まで続いた。

 中学、高校はそれなりにやりすごせたものの、短大進学を前にしてきつく締めたネジが締めすぎてかえってバカになり、思考も行動もてんでばらばらに綻びていった。

 電車やバスに乗り過ごすのは当たりまえ、伯母の家にお世話になるのにいとこと駅で待ち合わせても、待ち合わせ場所を間違えたままその場を動かず何時間も立ち尽くすという親族を巻き込む前代未聞の騒動も起こした。引きこもりもあった。社会人になっても失態は続き、あげくは10代後半から30代半ばまでの断続的な摂食障害ときたものだからたまったものじゃない。

 

 まったくどうしようもなく自分を傷つけ、まわりを傷つけてばかりの半生だった。半生だけに、反省の日々? などとくだらないダジャレでも言うしかないではないか。

 しかしそれも、「発達障害」ゆえの顛末だったのかもしれないと思えば、なるほどそうかと自責の念も他責の念も薄れてゆくのである。

 だがしかし…とも思う。

 

 最近読んだ本に、それとなく慰められた文章がある。それを記しておきたい。

 

「『由来、子供は親より敏感であり、人こそ知らね親を理解し許すものなのである。それによって子は親を超えてゆく……(『時代小説の愉しみ』)』

 親を許すことによって成長する、という地点にたどり着くまで、子供がどれだけ迷い傷つくものか、身に覚えのある者には容易にわかることだ」

 

 敬愛する作家、隆慶一郎氏の息女・羽生真名さんのエッセイ集『歌う舟人』の中の一文である。娘である真名さんから見た父、隆慶一郎は、若かりし頃の体験から不幸や非行を社会あるいは家庭状況のせいにすることを極端に嫌ったと、隆さんの随筆を引用して告白している。

「善であれ悪であれ自分の行動の根を自分以外の地点に置いて、人はいったいどこに立とうというのか。自分の足元を見つめずにどこに立てるというのか。そういう問いかけが、ここにはある」と。

 

 自分も他人も傷つけてきた半生を、「発達障害」という理由で切り捨てることは簡単だが、それにしてはあまりに長い戦いだったし、傷つけてきたものも多すぎた。

 自分の言動は棚に上げるくせに、悪知恵ばかり働かせてまわりに責任を押し付けてきた自分自身が嫌で嫌でたまらなかった。だからどうしても変わりたかった。それが、10年前のことだ。

「もの書き」という役を与えられたことは、わたしにとって幸いだった。まったく意識の外にあった「書く」という行為が、半生を見つめ直すリハビリになっていたのだから。

 リハビリは功を奏し、いつからかすべてが必然だったのだと思えるようになっていた。

 

 多かれ少なかれ、人間といういきものはみんな障害をもって生まれてくるのじゃないだろうか。

 欠けたものを埋め合わせるためにいろんな体験をし、人間となってゆくのじゃないだろうか。

 自分を傷つけ、他人を傷つけてでも、自分の行動の根っこは自分の足元以外にはどこにもなくて、自分で立つしかないのだと気づくことができたならば、人がなんと言おうと、その人生は間違っていないと思うのだ。

 

 発達障害なるものの片鱗を残しつつも、なんとかフツウの生活を送れているのだから、世の中すてたものじゃないなぁ…なんて、食のコラムなのにマズすぎる話を臆面もなく滔々と語る、やっぱり食えない女なのであった。

 

 ちなみにこれは「発達障害」とはっきり診断された上での話ではないので、実際に発達障害で苦しまれている方や関係者の方に不快な思いをさせるような不適切な表現がありましたら、ここでお詫び申しあげます。

 大変、失礼いたしました。

 

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Profile

神谷 真理子

神谷 真理子

もの書き。兵庫県生まれ。

詩、童話創作、聞き書き、取材文など、幅広い分野で活躍。著書に詩集『たったひとつが美しい』。『Japanist』にて「宇宙と人をむすぶ言の葉」を連載。本サイト「力のあることば」や「美し人」公式サイト「美しい日本のことば」を連載

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

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