日々是食日 体と心が喜ぶ食の話

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田口佳史講座ライブ配信
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薫風に天籟を聴く

2020.05.16

 自宅での食事が絶対になり、キッチンに立つ時間がふえた。料理は嫌いじゃないから苦ではないが、それにしても、食材や調味料のストックまで増えてしまったのには、少々とまどっている。
 というのも、わたしの脳は冷蔵庫に食材がたっぷり詰まっていると思考が停止するらしく、空っぽに近い状態、あれもないし、これもないというくらいが脳にはちょうどいいらしいのだ。
 足りすぎてはかえって迷う。だから買い物をした後よりも、数日後、冷蔵庫の中の空間が広がってゆくほどに思考も鮮明になってゆく。創意工夫の意欲が湧くのはそんな時だ。あるもので何ができるかと考える時間がことのほか楽しい。
 まるで断食の後の清々しさ、とでもいうのだろうか(経験はないが)。雑念の息苦しさから解放されて、ようやく脳はいきいきと動き始める。
 
 そんなわけで、わが家の冷蔵庫は「3密」には縁がない。つねに一定の距離、間合いが取れている。ゴロゴロと残り野菜の天下である。

 ちびりちびり残して置いた肉や野菜の切れ端などは立派な一品になるのだし、野菜の皮やキノコなどは天日に干せば日持ちもする。お天道様のスパイスが効いて栄養も味もギュギュッと濃縮、まったくおいしい出汁が取れる。大根の皮はもどして切り干し大根や和え物に、生姜の皮はスープの出汁に使ったり紅茶に入れて生姜紅茶にしてもいい。

 ちょっとした一手間はひと匙程度の幸せかもしれないけれど、そのひと匙の喜びは大きい。この喜びも先人の知恵の賜物かと思うと、なんでもかんでも新しければいいというもんじゃないんだなあとつくづく思う。

 

 そんなことを考えていた折、うれしい便りが届いた。月に一度、『南方録』の講義でご指南いただいている茶事懐石料理人の半澤鶴子先生からの便りである。
 半澤先生は出張茶懐石を行う料理人で、NHKの番組『ザ・ヒューマン』に出演されてから広く知られるようになられた。「女ひとり70歳の茶事行脚」という番組をご覧になった方もいるのではないだろうか。その半澤先生が、難解と言われている『南方録』を長年愛用、研究されながら紐解き、導き出された答えをご自身の体験と絡めながら、希望者にご指南くださっているのだ。
 ちなみに『南方録』とは、千利休の秘伝書として伝わっている古伝書で、高弟の南方宗啓が師匠の利休居士から聞いた茶事の心得や茶法を聞き書きしてまとめたものである。
 
 すべての門弟に届けられたであろう先生からの便りは、ホームページ「鶴の茶寮」から、「自蹊庵便り」と題したコラムを一部抜粋、プリントアウトして養生に勤めてほしいというものであった。緊急自体宣言を受けての当分の休講の知らせと先生らしい心づくしである。  

 そこには先生が実践されている養生レシピをはじめ、栄養の知識、日本食の素晴らしさ、自然からのメッセージなど、古より伝えられてきた日本人本来の養生暮らしの智慧が記されていた。しかも、先生の直筆のメッセージまで添えられている。オレンジの皮むき機「ムッキーちゃん」のおまけまでついてきた。涙がでそうだった。
 本来なら、教えを請うているこちらが先生のお身体を心配しなくてはならないはずである。にもかかわらず、先生は門弟一人ひとりに筆をとられたのだ。たとえ同じ内容だとしても、すべての便りに一筆一筆したためるのは容易ではない。簡単便利な世の中だからこそ、肉筆のぬくもりは身にしみる。早々、礼状をお送りした。
 
 翌早朝、野鳥の森は海風にあおられていた。きまぐれな風に野鳥も木立も騒がしかった。樹々の動きに合わせて足元でゆれる木漏れ日は、まるで海面に乱反射する光のようにきらきら輝いていた。美しかった。
 ふと耳元で風が鳴いた。松籟(しょうらい)である。
 
―― ああ……松の声。これが天籟(てんらい)なんだ。
 
 天籟とは、『荘子』「斉物論篇」にある言葉で、風が物に当たって鳴る音のこと。このときは風が松を鳴らしたのだった。松は風に肩を叩かれ、「やぁ」といって声をあげた(かどうかはわからないが)。
 その後も風は、さまざまなものの肩を叩いてまわった。あちこちで居場所を知らせるかのように、その物たちの声が鳴り響いた。森の空気が震え、新しい一日がはじまった。
 
 先生の便りは、門弟にとって天籟であった。一人ひとりにかける言葉は同じかもしれない。しかしその一筆は、たしかに門弟たちの心の琴線をふるわせ、さまざまな音を鳴らせたにちがいない。ちょっとした一手間は、ひと匙どころか計り知れない喜びを生む。
 
 どんなにささやかな触れ合いであっても、人と人とが触れ合えば風は起こる。ぬくもりも感じるだろう。巣ごもり生活が長くなればなるほど、陽の光もそのぬくもりも恋しくなるのは当然のこと。
 はやくこの自体が収束し、世界中で天籟が鳴り響いてくれることを願うばかりだ。

 

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Profile

神谷 真理子

神谷 真理子

もの書き。兵庫県生まれ。

詩、童話創作、聞き書き、取材文など、幅広い分野で活躍。著書に詩集『たったひとつが美しい』。『Japanist』にて「宇宙と人をむすぶ言の葉」を連載。本サイト「力のあることば」や「美し人」公式サイト「美しい日本のことば」を連載

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

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