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ココロバエ
美し人

毒と薬を求めて朝露に会いにゆく

2020.05.02

 朝露に会いにゆこうと思い立ったのは、マスクを強いられるようになって数週間ほど経った、4月も10日ばかり過ぎた頃だった。  

 まだ八重の桜がそこここに残り、春風のいきおいに圧されてぱらぱらと花片を零れさせていた。代わって幼い緑が眩しそうに空を見上げ、落ちてくる花片と陽光を小さなからだいっぱいに受け止めていた。

 マスク姿の自分とは違い、なんて健気で力強いんだろう。そう思ったら、なにがなんでもこちらも全身で彼らを受け止め、その生命力を見習いたいと思ったのだ。

 

 しかし今は外出にマスクは外せない。マスクを外して思いっきり深呼吸など自殺行為である。周りもはなはだ迷惑だろう。

 不要不急の外出もできないから、すっかり巣ごもり暮らしが板についてきてしまったのもしゃくにさわる。

 

 そもそもわたしはマスクが苦手である。蒸れるし摩擦で肌は荒れるし、吹き出物に悩まされるは息苦しくて口呼吸全開になるはで、まったくいいことがない。しかし今は、そんなことはいってられない。

 さて、こまった。威勢のいい若葉の息吹を全身でうけとめるにはどうすればいい?

 

「そうだ早朝、行こう!」

 

 JR東海のキャッチコピーさながらに、ひらめいた。まさか早朝、京都にゆくわけではない。いつもの散歩道へゆくのである。

 自宅から南へ500メートルほど下ったところにある、野鳥の森へつづく道だ。

 

 宮内庁の管轄区域であるそこは野鳥の楽園で、アオサギやダイサギ、ユリカモメ、トビにカワセミといった水鳥、渡り鳥が群れをなして集まってくる場所。人工的な被害にあった野鳥たちを保護して治療を行う野鳥病院も併設している。

 そして、そこ一帯は緑の楽園でもある。野鳥といわず虫といわず生き物がうごめく湿地帯で、森のぐるりを遊歩道が囲み、人も歩けるようになっている。その遊歩道がわたしのお気に入りの散歩コースなのだ。

 

 朝夕にベランダからその森を臨むと、潮をふくんだ海風にのって、鳥たちのざわめきと森閑なはずの森の樹々たちが騒ぎ立てているのが聴こえてくる。まるで自分の胸中の音を聞かされているようで、なんともやるせない。

 なるほど彼らが呼んでいるにちがいない。

 などと勝手な解釈をしながら、早朝、マスクを外して会いにいった。

 

 朝早いとはいえ、人はいる。ジョギングする人、飼い犬の散歩をする人、当然にお年を召した方も結構いる。それでも日中とは比べものにならないくらい人通りはまばらである。

 念のため、バンダナをポケットにしのばせて行った。基本的に人が歩いている場所は避けながら、草むらの方へ歩を進めてみるものの、それでもジョガーの吐く息やすれ違う人のことを鑑みて、状況によりバンダナで顔下半分を覆うことにした。マスクよりも呼吸は楽だし、肌に触れる部分も少なくてすむ。首下まで隠れてマスクより安全のような気もするし。 

 帽子にメガネ、バンダナで顔を隠すといういでたちは、どこぞで見たような犯罪者のようで怪しげでもあるが、これはこれで紫外線対策にもなってよいではないか。

 

 目覚めたばかりの森は、しっとりと湿り気をふくんだ空気に包まれていた。朝日に乾きはじめた頭上の樹々とはちがい、足元の草花はまだ夜気を思わせる露に濡れていた。念願の朝露だった。

 あたりを見渡し、人がいないことを確かめて、胸いっぱい若葉の息吹を吸い込んだ。なんどもなんども深呼吸をし、みずみずしい精気で身体を満たそうと試みた。

 若草の青々しい香りのなかに、それとは違う香りがほのかに混じっている。若草の下で、朝露に濡れた枯葉や古木が深く熟した香りを放っていた。心地よかった。

 

 それにしても、つい最近までは立場は逆であったはずである。枯葉や剥がれた古木の樹皮などに守られ、芽吹きはしたもののまだ外に出れずうずくまっていたのだ。それが今ではどうだ。体内にたっぷりと毒をふくみながら、生命力の塊となって立派に森を守る一員になっているではないか。

 あとひと月もすれば、突き刺す太陽の光も跳ね返すほど強く頑丈な深緑になっていることだろう。

 自然界のすがたはそのまま人間の世界だなあ、と妙に感じ入ってしまった。

 

 森は生命力に満ちている。毒にも薬にもなる草木の息吹を深く吸い込めば、こちらの体も彼らと呼応するかもしれない、なんて都合のいいことまで考えてしまう。

 静まり返った朝の森に足を踏み入れ、ひととき彼らと語らう時間が今のわたしには特別な煎じ薬になっているから、もはやわたしの体は毒も薬も効かない体になっているかもしれない。

 

 そして結局、

 「ああ、これは食のコラムだった」

 と、同じ反省を繰り返すのである。

 まったく毒も薬も効かないわけだ。

 

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Profile

神谷 真理子

神谷 真理子

もの書き。兵庫県生まれ。

詩、童話創作、聞き書き、取材文など、幅広い分野で活躍。著書に詩集『たったひとつが美しい』。『Japanist』にて「宇宙と人をむすぶ言の葉」を連載。本サイト「力のあることば」や「美し人」公式サイト「美しい日本のことば」を連載

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

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