日々是食日 体と心が喜ぶ食の話

「余珀」の時間

2020.03.17

 知人夫婦が近々カフェをオープンすることになった。その知人とは、以前、本サイトの「人の数だけ物語がある」で紹介した正垣夫妻(彼らの記事はこちら)。ふたり揃って人の良い、誠実を絵に描いたようなおしどり夫婦である。

 当時オーガニックカフェ「ゆきすきのくに」に勤めていた彼らは、いずれ自分たちのカフェを持ちたいと言っていた。取材したのが昨年6月。あれから1年と経っていない。まさかこんな急展開になるとは思ってもみなかった。当の本人たちが一番びっくりしているだろう。とはいえ、事が成るときというのは、案外こんなものなのかもしれない。あれこれ策を講じているときはたいしてうまく進まないものだし、ぱっと閃いた直感のまま動いたほうが結構うまくいったりするものだ。
 
 そのカフェである。店名は「余珀(よはく)」。白を琥珀の「珀」に変えたところがニクい。珀を使うことによって、単なる真っ白な空間が、とたんに滋味深い積年の時空を感じさせるのだから。樹液の化石である琥珀のように、ゆっくりと時間をかけて育んでいきたい、訪れるお客さまにも慌ただしい日常のなかに余白のような時間をつくってほしい、その空間を提供したいという、彼ららしい穏やかなネーミングだ。
 さらに言えば、彼らは茶人である。茶人らしく、夏目漱石の「草枕」に出てくる茶の表現の文字をあてがったという。
 
 ―― 老人は肯きながら、朱泥の急須から、緑を含む琥珀色の玉液を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い香りがかすかに鼻を襲う気分がした。
 
「緑を含む琥珀色」。なんとも雅な表現ではないか。さすが漱石先生。そこに目をつけた彼らもすごい。
 聞いて思わず、「さすが!」と膝を打った。
 
 このカフェ「余珀」に、オープン前のお披露目も兼ねて知人数名が集まった。初めての訪問に一同大興奮。なぜって、想像以上の店だったから。
 民家の一階が店舗になっており、そこかしこに民家の風情は残っているものの、個性的なリフォームと一部自分たちで手がけた内装のおかげで洒落た和モダンの空間になっていた。店名どおり、ゆったりと落ち着きのある大人の空間。まいりました。
 
 集まったメンバーは「トクさん」という80歳を過ぎたおばあちゃんに絡む人たちである。ときどき少人数で集まり、「トクトク会」を開く。この日も1ヶ月ぶりのトクトク会だった。あまり詳しくは話せないが、このトクさんがこれまたすごい人なのだ。若い頃から苦労を重ね、30代の頃に苦労がたたってリューマチを患うものの、なんと、ほぼ自力で回復させたという。現代医療をもってしても完治は難しいと言われている病である。それを薬だけに頼る事なく、環境を変え、心を変えて完治させたというのだ。しかも、学問らしい学問をしてこなかったからといって40代頃から独自の勉強を始めたらしい。
 それが楽しくて楽しくて、とトクさんは嬉しそうに語る。楽しいことが続かないわけがない。こつこつと学び続けた芽は少しずつ花を咲かせ、60代、70代頃になって実を結びはじめた。

 

「おかげで忙しくなっちゃって」と、トクさんは笑う。

 忙しすぎるから何の仕事をしているかはあまり知られたくないし、仕事も減らして最近はボランティアで受けているだけだと言っていた。
「人のためじゃない。自分のため。わたしが楽しくてやってるだけなの」
 そうなることを願ったわけじゃない。ただ楽しくて学んだことが、たまたま人のためになっていただけ、と繰り返す。
 
 テーブルに並んだ真っ白い皿の上にはチーズケーキとクッキーが。メンバーの一人であるお菓子職人、高橋さんの差し入れである。待ってましたと言わんばかりに、みんなの顔がほころんだ。一口ほおばってさらにゆるむ。舌の上でなめらかにほぐれてゆくほのかな甘み、やわらかいチーズの香り。しばし一同、我を忘れる。
 
「食べたいと思って食べるのと、食べなきゃいけないって食べるのとでは、ぜんぜん味がちがうよね」
 仕事柄、頂き物が多いのだけれど、一人暮らしで食も細いから食べきれないのだ、と苦笑するトクさん。うんうん、とうなずく一同。
 
 障子ごしに差し込む午後のやわらかい陽射しが、チーズケーキとトクさんの話を味わうメンバーたちの心の動きのように、ゆっくりと移動してゆく。
 笑い声と会話の間でソプラノサックスが静かな音色を奏でている。
 ここではだれも邪魔をしない。それぞれが、それぞれの色で心の空白を満たすのだ。
 
 ゆるやかな時を刻みながら陽射しは余珀の間に夕刻を知らせる。
 
「じゃあ、また」
「教えたくないお店になりそう(笑)」
 
 余珀で満たされたお腹と心を抱えて、わたしたちは駅へ向かった。ふたりの前途が幸あらんことを願いながら。

 克也さん、文さん、がんばって。

 

※「お茶と食事 余珀」

住所:神奈川県川崎市多摩区登戸新町341−5 JUNEBERRY G,

オープン予定日時:3月22日(日)11:00 – 19:00

FB:お茶と食事-余珀-お披露目の日

Profile

神谷 真理子

神谷 真理子

もの書き。兵庫県生まれ。

詩、童話創作、聞き書き、取材文など、幅広い分野で活躍。著書に詩集『たったひとつが美しい』。『Japanist』にて「宇宙と人をむすぶ言の葉」を連載。本サイト「力のあることば」や「美し人」公式サイト「美しい日本のことば」を連載

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

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