日々是食日 体と心が喜ぶ食の話
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美し人
ココロバエ

なんでもない時間のちっちゃい幸せ

2020.03.02

 なんとも大変な事態になった。コロナウィルスである。「ゴホンと言えば龍角散」どころではない。コホンと咳ひとつしようものなら、とたんに危険人物になってしまう。「咳ひとつで友も失う」と知人が苦笑していたが、まったくそのとおり。人間関係がギクシャクして精神まで病んでしまいそうだ。
 街から子供たちの笑い声も消えて不穏な空気が漂っているし、イベントの中止や物の買占めなどで世間はピリピリしているし、こんなんじゃ気分も滅入ってしまう。これから春爛漫というのに、これでは花たちも気の毒ではないか。
 と思っていたら、

 

〝今年も咲いたよ〜〟

 父からラインが入った。実家の枝垂れ梅が今年も賑やかに咲いたというのである。写真が送られてきた。

 

〝ほんまや、綺麗やなあ。まだ満開じゃないん?〟
〝八分くらいかな。そっちはコロナ、だいじょうぶか?〟

 

 ここ数週間、誰といわず連絡を取り合うたびに挨拶のようになってしまった「コロナ大丈夫?」という言葉。
 ふだんは連絡を取り合わなくても、こういうときに互いのことを心配し合うというのも、これはこれでいいのかな、と思ったりもする。あの人も、この人も元気だろうか、とその人の顔を思い浮かべていると、なんとなく優しい気分にもなれるし、これもひとつのつながり方なのかなぁなんて思ったりする。
 
庭に咲いた枝垂れ梅は、ほのぼのと幸せそうだった。
〝こんなときやから、よけい綺麗に見えるなあ〟と、わたし。
〝ほんまや〟と、父。

 

 花たちは世間の騒ぎとはまったく無縁に、今年もかわいらしい姿を見せてくれた。父とのやりとりはわずかにそれだけだったけれど、なんでもないそんなやりとりに幸せを感じる。ときどき父から送られてくる花の写真に、わたしはずいぶん助けられているのだ。緊張した日々が続いていればいるほど、たわいないやりとりに癒される。
 
〝今日のご飯はなに?〟
月に一度帰ってくる娘からラインが入った。
〝モツ大根〟
〝やった〟

 

 モツ大根は娘の好物である。牛モツとスライスした大根を煮込んだだけの簡単モツ煮込みで、これがなかなか美味しいのだ。鍋に直接、大根一本まるごとピューラーでスライスし、そこにモツと出汁つゆを入れて煮込むだけ。大根からたっぷり水分が出るから水は入れない。大量に汗をかいた大根は半分ほどになり、くたくたになってモツの出汁を吸い上げる。とろとろの大根モツ煮込みが、あっという間にできあがる。そして、あっという間に食べ尽くされてしまうのだ。

 娘も息子も大好きなメニュー。わたしも子供のころから食べていた。母のモツ大根はわたしと違い、もっと手が込んでいたと思う。それでも、なんとなくそれらしいモツ大根は、我が家の定番メニューになっている。
 
「家のごはんが、いちばんおいしい」
 口いっぱい頬張りながら、娘が言った。嬉しいことを言ってくれる。
「友達といろいろ美味しいもの食べに行くけど、なんか違うんだよね」
 その気持ちはわかる。美味しさの種類が違うというのだろうか。外食の美味しさと、家庭の味の美味しさはあきらかに違う。娘の味と母の味が違うように。
 
 高校を卒業し、好きな道を進むために家を出た娘はずいぶん変わった。今まで当たり前だったことが当たり前ではなくなったからか、些細なことでも「ありがとう」と口にするようになった。一泊して戻っていくときは「ありがとう、ごちそうさま」と言いながら、振り返り振り返り手を振っている。帰ってきてもどこに出かけるわけでもなく、一緒にゴロゴロしたり、それぞれが好きなことをしているだけだが、その時間がなによりも貴重で、幸せなひとときだ。
 
 離れていると嫌な部分を見ないですむ分、相手に対して優しい気持ちになれる。離れて暮らす親子はもしかすると、一緒に暮らす親子よりも強い絆で結ばれているんじゃないかと思うのは、はたしてわたしだけだろうか。
 室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」という詩が、しみじみ思い出される。
 
「お腹すいた、今日のご飯なに?」と息子。
「残り野菜があるから、野菜炒めにしようかなぁ」
「野菜炒めか」
「……」
 
 息子よ、来年の春は家を出たまえ。遠く離れて、ふるさとを思ってくれればそれでいい。
 緊張感のある暮らしをすれば、君も平穏無事のありがたさが身にしみてわかるだろうから。

 

 

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Profile

神谷 真理子

神谷 真理子

もの書き。兵庫県生まれ。

詩、童話創作、聞き書き、取材文など、幅広い分野で活躍。著書に詩集『たったひとつが美しい』。『Japanist』にて「宇宙と人をむすぶ言の葉」を連載。本サイト「力のあることば」や「美し人」公式サイト「美しい日本のことば」を連載

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

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