わたしがキッチンに立つ理由
数年ぶりに風邪をひいた。ずいぶん久しぶりのことで、体がとまどっている。
目の奥がじんじん疼き、咳と鼻汁がひっきりなしで体がだるい。鉛でも背負っているんじゃないかと思うほど、全身が重い。熱が高ければ、ひと思いに風邪菌も退治できるというのに、いちばん厄介な微熱がつづいている。眠りたくないのにまぶたが言うことを聞かず、体が眠れとウルサイ。
そんなもんだから、頭はいつも以上にぼんやりしている。
ぼんやりした頭で、やらなければいけない仕事を思った。思いながらも体は意に反して横たわろうとする。
日当たりのいいリビングのソファに体をあずけ、ぼんやりと窓の外を見やった。
外は、にくらしいほどの小春日和である。めずらしくへたって毛布に包まっているわたしをあざ笑うかのように、街は暖冬のうららかな陽気に包まれていた。
青い絵の具で塗りかためたような空に、光の粒が舞っている。道を挟んで向こう側の、古びたアパートが建っていた場所に大きな家が新築中で、どうやらそこから舞い上がった粉塵のようだった。
4階の我が家からは、その一部始終が見てとれた。朝といわず夕といわず、わたしは現場で働く職人たちの動きに幾度となく釘付けになる。風邪っぴきのこの日は、いつも以上にそうだった。
駐車スペースにとりかかる作業員がセメントをこね、丁寧にブロックを組み合わせていく。年配の作業員となにやら談笑し、それぞれが持ち場の作業を着々とすすめている。
重厚な窓ガラス越しにうつる光景は、まるでサイレント映画のようだ。
窓を開け放つと、とたんに音が飛び込んできた。サイレント映画がトーキー映画へ変わる。かすかに風が薫った。
トントン、カンカン、トンカン、ゴーゴー、トン、ゴー、ピーチピーチ、トンカンピー……。
作業音のなかに風や鳥の声が混じり合い、メロディを奏でる。ぼんやりと眺めながら、自然が奏でるリズムに耳をかたむけた。
―― なんだろう…この感じ。どこかで味わったことがあるような…。
そう、料理だ。料理をしている姿。その音。その一部始終に魅了されることを思い出した。
いや、ちがう。料理だけじゃない。人が作業をしている姿、ものづくりをしている姿に、わたしはうっとり見惚れてしまうことがある。時が過ぎるのも忘れて。
以前、アルバイトをしていた料理店でのことだ。カウンターに案内したまま待たせてしまったお客さんから、こう言われた。
「急がないでいいですよ。見ているだけで楽しいですから」
昼時で店は混み合っていた。7席ほどあるカウンターも満席で、わたしともうひとりの従業員は次々入るオーダーにてんてこ舞いだった。
カウンターの内側で簡単な調理と盛り付けをしているわたしたちの手元に、カウンター客の視線が集中する。だれも急かす人はいない。会話をしながら、できあがっていく料理をじっと眺めているだけだ。最後の仕上げに、一同が息を飲む。それが目の前に出されると、だれもがほっとした様子で満面の笑みを見せた。
もしかすると、人は完成品以上に、そのプロセスに関心があり、それを見ることで満足感を覚えるのかもしれない。完成品が想像以上のものであればあるほどに。
料理に関して言えば、調理をするプロセスにある、音や匂いがすでに食べる人の満足度を高めているのじゃないかと思う。
その証拠に、出来合いのものや調理済みのものを食べても、さほど満足感は得られない。プロセスで味わえるはずの音や匂いがないからかもしれないし、無から有を生むマジックのような手さばきを見られないからだろうか。
料理のときの音や匂い、そしてその感触は、ほとんどが自然のものだ。海のもの山のもの、動植物が醸す匂い、火と水の音と匂い、それらの手触り…。プロセスのすべてに、自然界の息づかいが感じられる。調理される素材たちにも命があるのだということを思いながら。
わたしにとってキッチンは、家にいながらにして自然と対峙できる場所だったのかあ…。
ぼんやりと作業員の動きを眺めているうちに、そんなことを思いながら、うつらうつらまどろんでいた。
トントントン…グツグツ…。
―― ん? いい匂い。
「起きた? 鍋作った。食べる?」
キッチンに息子が立っていた。
「食べる。ありがとう。お腹すいた。何鍋?」
「鶏肉とタラのチャンコ鍋」
野菜やキノコがたっぷり入った鍋が、コンロの上で暴れている。風邪をひいてはいても、食欲はあった。今回の風邪は味覚以上に温度や食感に敏感なようで、あったかくてどろりと柔らかいものばかりを体は欲しがった。
鍋の蓋を開けると、もわ〜んと生き物の匂いが立ち上がった。ほふほふ頬張るふたりの体のなかへ、彼らは静かに沈んでゆく。たちまち毛穴が開き、どっと汗が吹き出した。
わたしの体に場所を移した彼らの鼓動が、どくどくと脈打ち始めたのである。