日々是食日 体と心が喜ぶ食の話

見られている

2020.01.16

 ぼーっと本棚を眺めていたら、とたんに恐ろしくなった。

 

 ―― 見られている。

 

 そう思った瞬間、ばったり村上春樹と目があった(ような気がした)。よくよく見ると、こちらをじっと眺めている無数の目があるではないか。
 村上春樹のとなりで小川洋子が目を細め、漱石と水村美苗が肩を組み、デュマの背後からトルストイが目を光らせている。下の方で、栗原コレクションの図録の面から渡来人がわらわと覗き見ているし、彼らの他にも、洋の東西ごちゃまぜになった生者死者たちの視線が滔々と注がれていた。別室にある本棚からも、容赦ない視線を感じてのけぞった。
 ギョギョッ。こわい。こわすぎる。
 一人でいるときも、家族でいるときも、彼らは無言でたたずみ、我が家の一部始終を眺めていたというのか。
 
 見られているといえば、先日、某新聞のコラムで明治生まれの詩人、八木重吉の「冬」という短い詩が取りあげられていた。

 

「木に眼が生(な)って人を見ている」
 たったこれだけの詩である。

 

 結核を患い、29歳でこの世を去った重吉。病床で眺めていた樹に見つけた新芽が、じっとこちらを見ていると思ったのだろうか。言われてみれば、なるほど、そのように見える。
 
 ほんとうは、人間は人間以外のものにずっと見られているのではないか。草木はもちろん、鳥や犬や猫などの生き物はずっと人間を観察していて、「おバカな生き物め」などと思っているかもしれない。ちまたで話題の「へんないきもの」とか「ざんねんないきもの」という本にはむしろ、人間こそ取り上げてもらいたいものである。(もしかして、入ってる?)
 
 生き物だけじゃない。身の回りにあるもの、テーブルも椅子も、鍋もヤカンも、冷蔵庫や洗濯機などにも意思があり、夜な夜な人が寝静まったあとに談合を開いているとしたら…。
「まったく、うちの人たちときたら、どうしようもないねえ」なんて、わいわいやっているんじゃないだろうか。
 
 ふと手に取った本のなかに、ずっと探していたものがあったり、今必要なことのヒントが書かれていることはよくあることだ。直感とか、ひらめきとか、引き寄せの法則などと言ってしまえばそれまでだが、そんなとき、実は本がこちらを観察していて、振り向けと視線を送っているのじゃないかと思うことがある。目と目が合えば、ちょっと気になるから手に取ってみる。すると、そこにはやっぱり「それ」があるのだ。不思議なことに、ものほしそうに探しているときは、あちらさんも知らんぷりして、まったくつれない。こっちがすっかり忘れてしまったころに、「ほれ」と気前よく差し出してくれる。
 
 あのときもそうだった。10年ほど前になるだろうか。仕事もプライベートも先行きが見えず、うつうつとしていたときのこと。具合が悪くてたまたま会社を休んだ日、ふだんは行かないコンビニにふらりと立ち寄り、買い物をすませ、店を出ようとしたときだった。なんとなく後ろ髪をひっぱられるような気がして立ち止まった。横を見ると、フリーペーパーのラックがある。
「求人情報誌ねえ……ん?」
 なんだ、これ? たらく?
 目の覚めるような南国の空を思わせるブルーの表紙に、ひらがなの縦文字で「たらく」と書いてある。横には月のように地球が浮かび、違う惑星に生きる動物たちの楽園が描かれていた。上部に「こころの栄養で じぶん磨き」とある。「読むと、あったかーい気持ちになれる。楽しみながら学べる。好きなことを見つけられる。そんなフリーペーパーです」と、小さく中身をほのめかしていた。
 ページをめくると、巻頭に坂村真民の「花」という詩があった。

 

 ―― 花には
   散ったあとの
   悲しみはない
   ただ一途に咲いた
   喜びが残るのだ
 
 ドキドキした。パラパラと中身を確認し、フリーペーパーを握りしめて一目散で家に帰った。靴を脱ぐのももどかしく、買ったものも放り出して貪るように読んだ。頭上からズドーンと何かが落ちてきた。まさか雷光ではあるまい。
 毛という毛がぞわぞわ立ち上がり、涙があふれた。鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら、天を仰いだ。
「これだ! これだったんだ!」
 薄汚れたベールが剥がされた瞬間である。
 それからだ。網膜にメスを入れて近視が回復したかと思うほど、目にするものがくっきりはっきり見えてきたのは。
 この邂逅がなければ、今のわたしはない。もの書きになるなど、夢にも思わなかったことである。(詳しくは本サイト「人の数だけ物語がある」に掲載しています)
 
 ここまで書いてきて、これは食のコラムだったことを思い出した。どうやって締めようかと思っていたら、数学者の岡潔と目があった。こう書いてある。

 

 「私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない」
 
 数学を学ぶ喜びを食べて生きている、かあ…。
 だとしたら、今のわたしは言葉を食べて生きているのだろうか。人の言葉も草木や動物や、モノの言葉もがつがつと。そしてそこには、「発見の喜び」がたしかにあるのだ。
 

Profile

神谷 真理子

神谷 真理子

もの書き。兵庫県生まれ。

詩、童話創作、聞き書き、取材文など、幅広い分野で活躍。著書に詩集『たったひとつが美しい』。『Japanist』にて「宇宙と人をむすぶ言の葉」を連載。本サイト「力のあることば」や「美し人」公式サイト「美しい日本のことば」を連載

https://www.umashi-bito.or.jp/column/

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