藤野のおばちゃん
昔、私の住む村には三軒の萬屋(よろずや)があった。今で言うコンビニである。
中でもひときわ店内も広く、品数の多かった藤野商店、通称〝藤野さん〟が私のいきつけの店だった。
「おばちゃーん、コロッケひとつちょうだーい」
「ああ、まりちゃん、おかえり。はいはい、コロッケね。好きやなあ。毎日食べて、飽きひんの?」
「うん、あきひん。すきやもん。はい、おかね」
藤野のおばちゃんは、50円玉を受け取ると、コロッケをひとつ袋に入れてくれた。ぷんと香ばしい油の匂いに、ぐーっとお腹の虫が鳴く。袋を手に、脇目も振らずとんで帰った。
家に着くなり台所に駆け込み、コロッケを皿に乗せて、ご飯をよそう。こんがりきつね色のコロッケも、作り置きの惣菜のためか、すっかり冷えてくったりしている。
今思えば、なんてことない出来合いのコロッケである。それでも当時の私には、極上のコロッケだった。
「いっただっきま〜す」
丸い顔をさらに丸くさせて、かぶりつく。油のにじんだ衣とあまじょっぱいじゃがいもの間で、ぷちぷちとわずかに野性味を帯びた挽肉が、口の中でねっとり絡み合う。飲み込むのもおしい。
―― あぁ…おいしい〜。
冷めても美味しい、藤野さんのコロッケ。それが、幼稚園の頃の私のお昼ご飯だった。
幼稚園から帰ってくると、テーブルの上にはきまって50円玉がひとつ置いてあった。昼食代である。
自営業を営んでいた両親は忙しく、子供に構っている余裕などなかったし、おしゃまだった私も一人でなんでもやりたがったから、母親もこれ幸いとばかりになんでもやらせたのだろう。お昼ごはんを一人で食べることも、まったく苦ではなかった。それどころか、3人兄妹の真ん中で育った私にとって、ひとり自由になれる至福のときでもあったのだ。
当時の私の田舎では、子供たちのほとんどが保育園に預けられ、小学校に上がる前の1年間だけ幼稚園に通っていた。保育園も小学校も給食があり、自宅でお昼を食べるのは幼稚園のときの1年間だけ。その期間の昼時だけが、唯一、自由の身となれるときだった。
ちょろちょろとまとわりつく妹は保育園、宿敵の兄は小学校。しばらくは天下である。好きなだけ、家の中を占領できた。絵を描いたり、本を読んだり、テレビを見たり。気が向いたら外に出て行く。その気楽さが、何より心地よかった。
誰かにじゃまされることなく悠々自適に過ごすことの喜びを知ったのは、おそらく、あの幼稚園時代。その性癖は今も引きずっている。
藤野さんの思い出は、コロッケだけではない。何を隠そう、生まれて初めて犯罪に手をそめてしまった店でもある。
小学校の低学年頃だったと思う。いつものように駄菓子を買いに藤野さんへ行くと、帳場のところに目新しいお菓子が置いてあった。チョコレート菓子の「チロル」である。
今でもコンビニのレジ付近にあるチロルチョコは当時、新商品の画期的な駄菓子だった。それまでの三つ山タイプのものから、ひとつぶタイプのブロック状に様変わりし、茶色の包にポップなデザインで「チロル」と描かれたそれは、子供の目にもオシャレで都会的なお菓子に見えた。一個10円というのも魅力的だった。チョコの中のコーヒーヌガーも、これまで以上に大人びた感じがして、お気に入りのおやつになった。
さて、そのチロルチョコである。三つ山タイプのときの名残で、チョコには「TIROL」という文字と、元祖チロルチョコのトレードマークである少年の横顔のシルエットが刻印されたものの二種類が存在していた。誰が言ったか、子供たちの間では少年のマークが出ると「当たり」ということになっていた。
包を開けて少年が顔を出せば、もうひとつもらえる。そう信じて疑わなかった。
「あんな、おばちゃん、おとこのこのかおがでたら、あたりなんやで。みて! あたりや! もういっこちょうだい」
「ほんまかいな。 しゃあないなぁ…」
「あ、またあたった! おばちゃん、またあたったわ! もういっこちょうだい」
「え〜!! ほんまかいなぁ」
この後しばらく、チロル少年と私は、藤野のおばちゃんの良心を弄ぶことになるのである。
結局、チロルの当たりクジの一件は闇に葬られ、子供たちの間でも当たりクジはデタラメだったということになり、私のチロル熱は急速に冷めていった。子供ながらに後ろめたい気持ちもあったのだろう。藤野さんへもしだいに足が遠のいて行った。
藤野のおばちゃん、ごめんなさい。もう時効だから、許してね。
〝今日、遅くなりそうだから、夕飯は何か買って帰ろうか?〟
出先から、息子にラインを送る。
〝コロッケとかでいいんじゃない? 残り物もあるし、まかせるよ〟
コロッケかあ……。
藤野のおばちゃんは、もうこの世にはいない。
だけど、コロッケとチロルチョコは、この世にまだ存在するんだもんなあ……。
(写真:チロルチョコは「駄菓子辞典」より)