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酸っぱくてせつない恋の味

2019.08.01

 ここだけの話。実は私、いま恋をしています。通りすがりの恋ではありません。おそらくずっと昔から、密やかに恋心を抱いていたのだと思います。

 思い出すだけで胸はきゅんきゅんと騒がしく、はぁ〜…と吐息がもれてしまう。姿を見れば、心の臓はドドドドと早鐘を打ち、瞳はうるうる滲みます。切なさとさみしさが、ときおり鼻の奥をツンと刺してゆくのは、少々余計かとは思いますが…。

 

 出逢いは、まだあどけない少女の頃。春休みに訪れた小豆島でのことでした。祖母たち年寄りの集団にまじり、八十八ヶ所霊場のひとつである「第3番観音寺奥之院隼山一心寺」を参るのが、当時の私の春の一大イベント。本土からフェリーに乗り、瀬戸内海に浮かぶ小さな島へ渡るのは、少女の私にとって、なんとも大人びた冒険旅行だったのです。

 

 洞窟の中の石仏を順々に参るのがそこでの習わし。一年かけて貯めた賽銭の袋を下げ、じいさんばあさんの後に続きます。

 参拝を終えて汗だくになりながら岩山を降りると、目の前に一軒の茶屋がありました。店先に大きなバケツが置いてあり、蛇口からちょろちょろと水が流れています。山水を引いているのでしょう。ひんやり冷たい空気が火照った体を冷まします。見ると、輪袈裟をつけた人や白衣の人たちが、何やら手に手に談笑しています。あちらにも、こちらにも…。水場の中心で参拝客の視線を集めているのは、店のオヤジさんのようでした。

 

「なにあれ?」

 ガクガクと鳴る足もかまわず、私は思わず駆け出しました。

 そして、恋に落ちてしまったのです。

 いいえ、オヤジさんではありません。オヤジさんが手にしているもの。正確に言えば、オヤジさんの手からにょろにょろと押し出されているものにです。

 

 もうおわかりでしょう。恋の相手とは「ところてん」。氷のような角棒が、四角い筒からにゅるっと現れたかと思うと、まるで尾形光琳の波文様のように渦を巻いて器へおさまる。その一部始終に少女の私は、すっかり魅せられてしまったのです。酢醤油をたらしつるつるとすする。その美味なことと言ったら。喉元をすべりおちる酸味は、なるほど大人の味でした。

 

 あれから30有余年、私はふたたび「ところてん」熱に浮かされています。もっと言えば「寒天」です。ところてんと寒天では、作る工程も違えば風味も違う。天草を煮詰めて煮汁を冷やしたものが「ところてん」ならば、ところてんを凍らせて乾燥させたものが「寒天」です。

 しかしそんなことはどうだっていい。私は、あのコシのある、つるんぷるんが好きなのです。

 

 思えば、昔から年寄りが好む味を好む私です。ところてんに心惹かれたのも、あのとき一緒にいたじいさんばあさんたちが美味しそうに食べていたからです。私の祖母もそうでした。

 

 人様に迷惑ばかりかけていた祖母。けれど、どういうわけか信仰心は篤かった。惜しまれつつ早々とこの世を去った祖父よりも、迷惑千万だった祖母がいまだ生き永らえているのは、なんだか不思議な気もします。

 10年以上前に発症した認知症で、親族一同が祖母の世話に辟易しつつも、次第次第に心を寄せ合い、かつてないほどに関係が良くなっているのも、はてさてどういうことでしょう。

 私には、仏さまが祖母の体を借りて餓鬼となり、私たち親族の心根を試したように思えてならないのです。あのときの石仏観音さまが、祖母の裡にもいたとしら…。

 

 記憶をなくした祖母は今、施設の中で何を思っているのでしょう。

 親族一同、だれのこともわからない。寝たきりのまま、静かに最期のときを待っているだけでしょうか。

 

 ところてんや寒天を口にするたび、うららかな春の陽光がまぶしい小豆島を思い出します。若く威勢の良かった祖母と参った石仏観音。胸ときめいたところてん。

 好きな時に、好きなだけ、好きなように味わいたくて、せっせと粉末寒天で作り置きをしています。酢醤油にからし、きな粉に黒蜜、赤エンドウも常備して。

 

「また食べてんの?」

「だって、美味しいんだもん。食べる?」

「いらない」

 

 息子よ。いつか君も熱い恋をするだろう。切なくてさみしくて、胸がきゅんきゅん鳴るような。甘くてすっぱくて、ちょっぴりからい、そんな恋を。今はプッチンプリンが好きだとしても。

 

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