魚の目玉が見たものは・・・
いつだったか。昭和天皇か平成上皇か忘れたが、鯛やマグロなどの魚の目玉まわりを好んで召し上がると、新聞で読んだことがある。「え? 天皇も?」と、驚きつつもニヤリとした。
「私と同じじゃない」なんて一庶民が偉そうに、少しばかり天皇と好みが似ていることに気分を良くしてふんぞり返った。
魚の目玉まわりを食べる人は、おそらく少数派。ぷるぷるしたゼラチン質は脂の塊だし、ぎょろりと白目をむいた目玉をさらに剥き出してしゃぶるという恐ろしげなことを好む人はあまりいない。天皇が目玉をしゃぶったかどうかはわからないが、私はしゃぶる。食い意地はって、目玉まるごと口の中へ放り込む。ぷにゅぷにゅとろとろの甘いゼラチンを堪能したあとは、ころりと白い塊をぺっと吐き出す。あまり行儀いいものではないが、そんなことは気にしない。だって、美味しいんだもの。
あるとき、知人と目玉まわりの取り合いになった。どうやらその人も目玉が好きだったらしい。誰も食べないだろうと思って箸を出したら、向かいから箸が伸びてきた。
「君も旨いところ知ってるな!」
4人中、目玉に箸を伸ばしたのは私とその人の2人。あとの2人は珍しそうに眺めていた。
「え? ●●さんも食べるんですか?」
「あったりまえだよ! ここが一番うまいんだ」
目玉まわりを食べる人を見たのは、その人で2人目だった。1人は母である。
母ほど魚を綺麗に食べる人を、私は知らない。猫の食べるところもないほどに、わずかな骨と頭だけを残してぺろりと平らげる。いささか上品さには欠けるものの、母が魚を食べた後の皿は気持ちいいくらいほとんど何も残っていない。無残にバラされ残骸だけになった魚がのった家族の皿も引き寄せ、同じように食べ尽くす。
そういえば、母がまるまる魚一尾を食べるのを見たことがない。いつも家族の食べ残しを食べていたような気がする。
母と違って父は肉の多い腹身しか食べないから、皿の上はエラや小骨にまみれた身で、ぐちゃぐちゃと汚い。それを母が綺麗に始末していた。
「どうせ、お父さんが残すからね」
それが母の口癖だった。
魚の目玉をしゃぶっている母を見たときは、さすがにギョッとした。そこまで食べるかと、子供心に虚しくなったものだ。
「きもちわる〜」
「なんで? おいしいのに」
酒に酔った目を泳がせながら、ころりと白い塊を口から吐き出す母を見て、ますます気持ち悪くなった私は、そそくさと席を立った。振り返ると、母はひとり食卓でうとうとと舟を漕いでいた。
「魚、綺麗に食べるね」
そう言われるようになったのは、いつからだろう。気がつけば、母と同じように余すことなく魚を食べ尽くしている自分がいた。目玉のまわりも、背びれや尾びれも、小骨もきれいさっぱり平らげる。ぽってり膨れた腹身より、頭やヒレや骨のまわりを好んで食べる。焼き鮭の皮など、腹身を残してもそこだけは食べないと気がすまない。
魚の目玉まわりが栄養価の高いことを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。やれマグロの目玉にはビタミンB1やDHAが含まれているだの、皮にはビタミン群が、骨にはカルシウムが豊富だのと騒がれる前から、母は目玉も皮も骨もしゃぶっていた。父が食べ残したものを。そして私は、ただ美味しいという理由だけで。
「ねえ、起きなよ。もうこんな時間だよ」
息子の声に、はたと目を覚ます。
「ああ、また寝ちゃった……」
夕食後、座ったまま眠ることが多くなった。テーブルに目をやると、自分の分の食器だけが、まだ片付いていない。流しにも食器が溢れている。
「はあ……、たまには片してくれてもいいと思うんだけど……」
眠さもあって、ひとりぶつぶつと愚痴る。
「あ! そっか、お母さんも……」
あの頃、目を覚まして後片付けが終わっていたら、母はどんなに喜んでいただろう。今更ながら、親を気遣う心ない娘だったと、反省しきりである。
眠い目をこじあけ、残った食器に手を伸ばした。
と、小さな白い塊が、皿の上でころころと転がった。
〝どうだ、ようやくわかったか〟
魚の目がぎょろりと剥いたような気がして、慌てて立ち上がった。