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愛すればこそ発酵す

2019.07.01

「元気?」
 突然の母からの電話に肝を冷やした。何事かと尋ねると、特に用事はないという。出先から、時間の合間にふと思い立ってかけてきたそうだ。父の声もする。

 

「元気やで。そっちは?」
「こっちも、みんな元気や。この前荷物送ってから、ゆっくり話してなかったやろ。どうしてるかと思って」

 

 ありがたいことに、2、3ヶ月に一度、米と一緒に自家栽培した野菜や果物が田舎から送られてくる。本来なら、娘の方から老いた親に何か滋養になるものでも送るのが筋というもの。ところが、未だ何くれと世話になっている親不孝者である。

「孫である我が子を人間らしく育てることが、せめてもの親孝行」と、両親が喜んでくれるのをいいことに、子供たちの近況を面白おかしく話して聞かせる不甲斐なさ。あゝ…なさけない。
 
 先月は、採れたての新玉ねぎと一緒に、「井戸糀屋」の塩麹と甘酒が届いた。最近、母が懇意にしている店である。
 井戸糀屋は、醤油の町として知られる兵庫県たつの市の城下町に、大正15年から店を構える老舗糀製造所。創業当時から変わらない手作り糀は、全国でもめずらしいという。米と大豆を持参すれば、自家製の糀を使って味噌を作ってくれると評判の店だ。しかも、保管もしてくれる。
 温度の如何で甘くも塩っぱくもなる味噌は保存がむずかしい。風通しもよく敷居面積の広い日本家屋であれば問題ないが、今の家の大半はちがう。手作りしたものの、保管場所に困るという人は多いし、手作りはしなくとも、こだわりの米や大豆で作った味噌が食べたいという人もいる。そういう個人の要望を満たしてくれる老舗はめずらしい。もちろん、米農家や大豆の生産者が自前の材料で味噌を作って売買するというような、ロットの大きいものが大半ではあるそうだが……。いずれにしても、昨今の発酵ブーム、糀ブームが追い風になり、老舗糀屋に新たな風を吹き込んだのは言うまでもない。ちなみに、安倍首相の奥様、昭恵夫人もここで味噌を作ってもらったそうだ。
 
 両親は、この店の女将から伝授してもらった糀水を毎日飲んでいる。なにやら健康にいいという。現代病である花粉症にも効くそうだ。そういえば、最近、知人から粉末の紅糀をいただいたが、それも同じようなものだろう。甘酒に混ぜて飲むといいらしい。糀が体にいいことは、すでに周知の事実。今さら何をか言わんやである。
 
 井戸糀屋を知ったのは、今年2月。久しぶりに帰省し、母と二人でドライブを楽しんだときのことだ。都心では乗らぬ車を走らせ、故郷のなつかしい場所を逍遥した。いきおい隣町まで足を伸ばして見つけたのが、くだんの糀屋である。母と二人で隣町を散策するなど、これまでの人生で初めてのことであったから、ひんやりと冷たい2月の空気も、心なしかゆるりと和らいだ気がした。
 

 母と娘。ありがちな複雑な関係は長い尾を引き、分かり合えない間柄だった。それが、ここ数年で改善した。母の背が、丸く小さくなってゆくたびに、互いの心に突き出ていた棘は影を潜め、丸く穏やかに向き合えるようになった。
 母は、このときに訪れた井戸糀屋がたいそう気に入ったようで、その後も足繁く通っているという。年老いてゆく母であっても、毎日せわしなく、楽しそうである。
 
 電話の声も、弾んでいた。こちらはというと、タイミング悪く沈んでいたときだった。母の声に、思わず涙が滲んだ。「元気やで」と返した言葉が震えていなかったかと心配になったが、大丈夫だったようだ。楽しそうな母の声と、後ろでふざける父の声に、心も和んだ。年老いたふたりに心配はかけられないと、声のトーンを無理やりあげる。それにしても、ふいの電話は、親であるがゆえの直感であろうか。
 
〝元気?〟
 今年高校を卒業し、専門学校に行くために家を出た娘に、久しぶりにラインを送った。

 なかなか返事はない。いつものことだ。忘れたころに、元気マークが届く。

〝近々帰る〟との返事に、安堵する。
 
「あの子、大丈夫かな」
「大丈夫じゃない? 何かあったら連絡してくるでしょ。それにしても、じいちゃんもばあちゃんも元気だよね」
 連日のタマネギ料理に、箸を泳がせる息子。
 何かあってからでは遅いんだよ、との言葉を飲み込み、タマネギ料理を皿に取り分け、
「じいちゃんたちも、毎日タマネギ食べてるから元気なんだよ」と皿を差し出す。
 
 父と母も今は元気に暮らしているが、何があってもおかしくない齢。間違いなく最期の時へ向かっている。

 丸くなった二人の背を愛おしく思うようになったのは、息子が大学に入ったころではなかったか。娘が家を出てから、いっそう丸い背が愛おしい。我がことになって、親の愛にようやく気づく不届き千万さ。子供たちの行く末も、目に見えるようである。

 

 風通しよく、涼やかな場所でゆっくりと熟成させるのが旨味の秘訣だと、糀屋の女将は教えてくれた。

 

 本当の愛は腐らない。近すぎると暑苦しく感じる愛情も、距離をあけて風を通し、ゆっくりと時間をかければ、まろやかな優しい味わいに熟成されてゆくのだと、親子の愛のかたちをも女将は教えてくれたような気がする。

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