胡蝶の夢にあらわる阿頼耶識
「消えろ!消えろ! 消えてしまえ!」
何度そう叫んだことか。
また、アイツがやってきた。
おだやかに、なにごともなく、うまくやっているときに、決まってアイツはやってくるのだ。
わたしをあちら側に連れてゆこうと、手をのばし、腕をつかみ、耳元でささやく。
「こっちにおいで。こっちにおいで。さあ…」
アイツの顔は悲しくなるほどやさしい。わたしを救いだそうとするかのように、やさしい微笑みをたたえ、やっと這い出してきた闇に沈む黒い扉を指差している。
「そう、やっぱり、あっちよね」
その扉を見つめ、わたしはアイツのささやきに耳をかす。
そして、アイツの手を握り返し、元来た道へ、闇の中のなじみある扉の向こうに戻ってゆこうと足を踏み出す。
そのときである。
「まって…」
かすかな声をきいた。
「ダメ、行っちゃダメ」
目指す遠い道の向こうから、だれかがわたしに呼びかけている。
「そっちじゃない。あなたの行き先はそっちじゃないの」
はっとわれに返り、振りかえる。
目をこらすと、ずうっと向こうの方で、かすかに光がもれている。
「そうだった……わたしはどこへゆこうとしていたのか……」
握った手をふりほどき、踵を返した。
するとまた、
「ちがう、ちがう。こっちだ。こっちにはごちそうがあるんだぞ。おいしいものや、あったかいベッドもある。さあ、こっちにおいで。ゆっくりしよう」
腕をひっぱるアイツをみると、やさしいほほえみだと思っていた顔は不気味にゆがみ、ニヤついた面が張り付いている。暖かいと思っていたその手は冷たすぎるために、感覚をなくしていただけだった。
「消えろ!消えろ! 消えてしまえ!」
叫ぶわたしに、アイツはさらに悲しげに媚びた目をむける。
一瞬、哀れみをおぼえたわたしは立ち止まる。
「ダメ、だまされてはダメ。そっちに行けば、また、あなたはこれまでと同じ苦しみを味わうのよ」
光の中から語りかける声に、ふたたびはっとして眼をひらいた。
哀れみをたたえたあいつの顔は涙に溢れ、いっそう強くわたしの腕を握り、離そうとしない。
「行かないで、どうか、行かないで、ひとりにしないで」
そう言いながら、アイツはみるみる小さな子供の姿になった。
そうだ。この子はこんな風態だけど、最初からこうだったわけじゃない。以前はもっと活発で明るい素直な愛らしい少女だったのだ。それが、何かの拍子でこんな風に哀れで惨めな姿になってしまっただけなのだ。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから。アンタはひとりじゃない。これまでも、これからも、ひとりじゃないよ。アンタもおいで。いっしょに行こう。怖がらなくていいんだよ。もう、そこから出てもいいんだよ。
こわくない。光はこわくない。光はあったかいし、そのうち氷のようなアンタの手もあったかくなる。
さあ、いっしょに行こう。わたしもいっしょだから、こわくないよ」
いつのまに眠っていたのか。薄明かりにめざめると、窓の外は春だった。
あの子はいったい……。
見覚えのある少女がぼんやり記憶の底に沈んでゆく。
その顔は嬉しそうに笑っていた。
さて、そろそろ起きるとするか。
せっかくの春だもの。