日々是食日 体と心が喜ぶ食の話

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本物の真髄(電子版)

無事是貴人のことば

2021.12.28

 今年も残すところあとわずか。毎度のことながら、あっという間の一年でした。振り返ってみると、なかなか悪くない一年だったように思います。もちろん悪い(かもしれない)ことはあったけれど、世の中の状況を鑑みれば、結果的にどれもこれも大したことではない。自分も家族も、身近な人たちが無事に一年を過ごせたことを考えると、それだけで丸儲けの一年だったと思います。
 
「無事」といえば、先々週のお茶のお稽古のこと。床の間に見覚えのある文字の掛け軸がかかっていました。禅語の「無事是貴人」です。客席に座って眺めていると、それに気づいた先生がこうおっしゃるのです。

「この歳になって、ようやくこの心境になれますねえ。近ごろは特にそう感じます。来年どころか、明日どうなるかはわからない。ひとつずつ整理しながら、その日その日を十分生きられたらと思いますよ」

 

 背中を丸めて遠くを眺める先生の顔を盗み見しながら、わたしは「無事是貴人」の意味を巡らせました。おぼろげには理解できたものの、はっきりこうとはわからない。ただ、「無事」の意味が一般的な「なにごともない」という意味ではないことだけはわかりました。先生の横顔にも「そのとおり」と書いてあるような気がします。

 

 うやむやのまま、お稽古の順番が回ってきました。水屋で支度をし、点前の準備を整え、亭主となってお辞儀をした、その時です。
「はい、なんて言うの?」と、先生の声。
「え?」とわたし。
「その時、お客さんになんて声をかける?」
「え…っと……。よろしくお願いします」
 恐る恐る言うわたしに、先生は、
「どうぞお気を楽に、ですよ」と、おっしゃる。
「お茶はね、一服なんです。『どうぞ足を崩してお寛ぎください』という意味を込めて『お気楽に』と言う。亭主がすすめないと」
 わたしは、つい仕事の癖で「よろしくお願いします」と言ってしまいましたが、確かにこの場合は的外れな言葉です。
 
 最近知ったのですが、「よろしくお願いします」という言葉は、どうやら相手を緊張させてしまうようなのです。ある調査によれば、上司と部下の1対1のミーティングでは、上司は最初に「よろしくお願いします」と言ってはいけない。これを言うと部下のテンションが一気に下がる、という社内調査の結果が出ているそうです。

 ただでさえ緊張する上司との対話。面と向かって真っ先にこれを言われてしまうと、部下は評価されているのではないかと、緊張のあまりスムーズに会話ができなくなってしまうのだとか。デキる上司は「よろしくお願いします」とは言わず、たとえば「時間を取らせて悪いね」とか「〇〇さんが君のことを褒めていたよ」など、まずは相手の緊張をほぐすような言葉をかけると言います。
 
 お稽古があった後日にこのことを知り、「なるほど、そうか」と、あの時の先生の言葉がストンと腹の底に落ちました。
 もちろん上司と部下のやりとりがすべてそうだとは思わないし、ましてや客と亭主との状況に当てはめるつもりもありません。
 ただ、何気ないひとことが相手の心身に作用するのだということを改めて考えさせられた一幕でした。
 
 いつも思うのですが、お茶のお稽古に行くたびに、わたしは恥を晒しに行っているのではないかと情けなくなります。
 茶道教室の日々を綴ったエッセイ『日日是好日』で、著者の森下典子さんも言っているように、茶道初心者にとってお茶のお稽古は、「〝自分は何も知らない〟ことを知る」第一歩だということが突き刺さるように身にしみてわかります。

 

ーー 心のどこかで「こんなこと簡単よ」「私はデキるわ」と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。
 つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。ーー

 

 以前読んだこんな場面を、今さらながらしみじみ実感するのです。
 
 自宅に戻り、書棚から禅関連の本をいくつか引っ張り出して「無事是貴人」を調べてみました。率直な意味は、「真理を心の外に求めず自分の心中に求める人のこと」とあります。
 臨済禅師の言葉だそうで、「無事是れ貴人、但(た)だ造作すること莫(なか)れ、祇(た)だこれ平常なり」と説かれた言葉の一部のようです。
 自分の外になにかを求めず、無造作で平常な、無理のない心を無事とし、どんな状況においても心を乱すことなく、普段どおり当たり前のことを淡々と行えることが最も貴ぶべき人間のあり方だということです。
 
 本のページを繰りながら、先生の丸い背中越しに見えた掛け軸を思いました。すると、無事に至った先生の声が聞こえます。

「お気を楽に」

 これほど無事を言い表した言葉はないような気がします。
 
 心忙しい世の中ですが、どうぞみなさまお気を楽に。
 どんなことがあろうとも大丈夫。
 良き新年をお迎えください。
 来年もご無事でありますように。
 今年一年ありがとうございました。
 

神谷真理子(本コラム執筆者)公式サイト「ma」

 

●「美しい日本のことば」連載中

 今回は「しろかね」を紹介。

―― 銀も金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも(『万葉集』より)。山上憶良のこの歌で「銀」を「しろかね」と呼ぶのだと知った人も多いのではないでしょうか。続きは……。

 

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