日々是食日 体と心が喜ぶ食の話

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本物の真髄(電子版)

「へへん」の屁片

2021.08.20

「ときどき、スランプはやってくる」
 というくだりで始まる川上弘美さんのエッセイに、我が意を得る思いがした。『へへん』というタイトルのそのエッセイは『晴れたり曇ったり』というエッセイ集の中のひとつで、冒頭から川上さん自身の弱さを告白している。
 
―― 仕事の、とか、人間関係の、という特定のスランプではなく、生きていること自体のスランプだ。たすけて、と誰かに言っても、誰も助けてくれない。誰かに助けられるのも、ほんとうは困るし、だから、そういう時には、水のたまった瓶の底に沈む小石のように、ただ一人しんとしている。
 
 と、川上さんは前置きをして、しんとしている時に決まって思い出すことや、スランプと気づく瞬間のこと、スランプから立ち直り、それが「風邪みたいなものだ」とわかっていつもの日常に戻っていく様子などを淡々と綴っている。

 著名な作家といえど、当然、ありきたりな日常はあるわけで、自転車で商店街を駆け抜けたり、スーパーで人参や大根などの食材を買い、そのままデパートに寄って買い物袋ごと試着室に入り、スランプで太った体にスカートを履いてみるとか、食パンで生クリームのみかんサンドを作ってたらふく食べた後に「なぜスランプなんかになるのだろう」と考えたりする。
 そうやってスランプになる理由を考えながら、少しずついつもの日常が戻っていることを実感するのだ。
 川上さんの、わたしたち一般人とそう変わらない日常を垣間見れた気がして、なんとなくほっとした。
 
 少し前の新聞の書評欄に、文化人類学者で立命館大学教授の小川さやかさんが、フランツ・カフカの『絶望名人カフカの人生論』について、これまた納得のいく評を寄せていた。

 

―― 鬱々としている時にポジティブな言葉を聞かされ、余計に疲れてしまうことがある。失恋した時に悲しい歌が染みるように、弱った心に寄り添う後ろ向きな言葉に浸りたい時もある。
 
 わかる、わかる〜!と、語尾を半音上げて引き伸ばしてしまうほど大いに納得したものだ。その後に引用していたカフカの言葉にも、たいそう救われる思いがした。
 
「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」
「床の上に寝ていれば、ベッドから落ちることがないように、ひとりでいれば何事も起こらない」
 
 小川さんはカフカの突き抜けたネガティブさに思わず笑ってしまい、自分はそこまで絶望していなかったというカタルシスを得させてくれると、カフカの偉大さを褒め称えていた。
 
 そうなのだ。落ち込んでいる時に「元気をだせ」とか「気にするな」と言われても、元気は出ないし、気になるものは気になる。そんなことより、ただ黙ってそばにいてくれたり、「うん、うん」と話を聞いてくれるだけで慰められるものなのだ。 
 そうして、時間はかかってもなんとか自力で立ちあがっていく。
 人は弱い生き物だから、とことん弱くなってもおかしくはない。それでも自然治癒力というものがあるように、弱いながらに回復していくことを、わたしたちはこれまでの経験則から知っている。
 生きることに疲れたり、鬱々とした気分になるのは人間だからで、他の生き物にはあり得ないことだ。もっとも、「生きるか死ぬか」の瀬戸際を生きた人たちには、「生きたい」と願うことはあっても「生きることに疲れた」などと思うことは万に一つもないだろう。
 それでもやっぱり、人間は社会的な生き物だから、時代や状況の変化で思考も行動も変わるだろうし、人間的になればなるほど心も体もくたくたになるのではないだろうか。
 だから、もともと「人間は弱い」ことを前提にすれば、スランプやネガティブになるのは、それほど悪いことではないわけで、失敗から生まれる成功があるように、弱さから生まれる強さもあると思えば、希望のかけらも手に入るのではないか。
 
―― 少し原稿を書いて、また外に出て、猫を撫でた。いつもの路地の入り口にいる猫である。秋が来たと思ったら、もうじき冬だ。今年はあと何回スランプが来るのだろうと思いながら、アオマツムシの声をじっと聞く。
 
 川上さんのスランプは、虫の声や野良猫や、やたらに高くなった秋空に吸い込まれていき、「へへん、へへん」と言いながら、一人で路地を行ったり来たりしているうちにどこかへ消え去っていったようだ。
 そういうことってあるよなあ……と、窓から流れてきた秋めいた風に、スランプ気味だったらしい自分にようやく気づいて、わたしも「へへん」とひとつ呟いてみた。

 

神谷真理子(本コラム執筆者)公式サイト「ma」

 

●「美しい日本のことば」連載中

 今回は「柄杓星」を紹介。 天の中心を示すかのように、北の空でひときわ大きく光輝く北極星。天空のすべての星を支配し、宇宙を司る天帝として不動に鎮座するその星の側で、帝を守るように周囲を巡っている北斗七星。この星の和名が「柄杓星(ひしゃくぼし)」です。続きは……。

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