偉大な日本人列伝
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明治維新を促した人間媒体

第13回 坂本龍馬

龍馬とモーツァルト

 龍馬とモーツァルトには、いくつかの共通点がある。

 例えば……。

・いずれも抜群の知名度を誇るが、ある時期まではほとんど無名だったこと。(モーツァルトは20世紀になってから評価されるようになったし、龍馬は昭和40年代まで地元・高知でさえその名を知られていなかったという)

・突飛な発想と行動力があった。(モーツァルトはフリーの音楽家になって生涯の3分の1を旅をしながら過ごしたし、龍馬は28歳で脱藩後、全国を駆け巡って大政奉還の地ならしをした)

・姉思いで筆まめだったこと。(モーツァルトは姉ナンネルに対し、〝ウンコ〟連発の手紙をたくさん書いているし、龍馬も乙女姉に、自慢話の際に用いた〝エヘン〟が候文に混じった面白い手紙をたくさん書いている)

・ともに30代で死んでいること。(モーツァルトは35歳、龍馬は33歳で没)

・ともに天真爛漫な楽天家だったこと。

・その後に及ぼした影響が甚大であること。

 その他にもいくつかあるが、このあたりでやめておこう。

 

 では、なぜ、近年まで龍馬は日本史の表舞台に姿を現さなかったのか。ひとつには、歴史年表に載るような、具体的な事績・功績に乏しかったということがあげられるだろう。龍馬は、激烈な革命家でも政治家でもない。さらに、道徳的規範という定規をあてがって人物像を見た場合、かなり常識からはみ出ているということも一因となっているのではないか。今では、それらも含めて〝天衣無縫〟と評され、肯定的に見られているが、少なくとも吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通らのようなストイックさはない。それはともかく、龍馬が一気に全国区になったのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が産経新聞に連載されるようになってからである。

龍馬の本領

 龍馬の功績はなにか。ズバリ、〝人間媒体〟であったことではないだろうか。

 媒体という言葉を辞書で調べると、

一、なかだちをするもの。媒介するもの。

二、情報伝達の媒介手段となるもの。新聞・ラジオ・テレビなど。メディア。

三、記憶(記録)媒体のこととある。

 要するに複雑に交差する人や情報を、ある一定の方向へ編集するものといっていい。龍馬はまさしく媒体の役目を果たし、薩長同盟、薩土盟約、船中八策などによって幕末期の混乱を王政復古という方向へ導いた。あの当時、薩長土をはじめとした雄藩は、それぞれの事情を抱えており、大政奉還へ向けて共同歩調をとることは難しかったが、龍馬は人間媒体の役目を発揮することによって日本を洗濯したのであった。それができたのは、〝このままでは日本が列強に飲み込まれてしまう〟という強烈な危機感が根底にあり、さらに勝海舟、西郷隆盛、木戸孝允ら当時のキーパーソンを魅了した〝人たらし〟であったからだろう。

時代の要請によって生まれた人

 歴史を概観すると、時代の変わり目に必ず〝その人なくして歴史は変わりえなかった〟という重要人物がいる。しばしば、それを指して「時代が人物を要請する」というが、まさに龍馬もそういった人物の一人といっていい。

 坂本龍馬は、天保6(1835)年11月15日、土佐の豪商・才谷屋に生まれた。嘉永6(1853)年、19歳のとき、江戸へ修業に出て、北辰一刀流・千葉定吉の道場で剣法を学ぶ。嘉永6年といえば、浦賀にペリーが来航した年。あまりにも絶妙のタイミングである。

 翌年、土佐に戻り、その2年後、再び1年間の遊学を認められて江戸へ出る。安政5(1858)年、千葉定吉から北辰一刀流長刀兵法目録を授けられている。短期間に相当な剣術の腕前になったのだろう。

 当時、日本は揺れに揺れていた。列強からの圧力に屈し、大老・井伊直弼は天皇からの勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印。さらに、将軍継嗣問題では、いくつもの雄藩が推していた一橋慶喜ではなく、徳川慶福(家茂)を強引に推挙し、問題に決着をつけた。

 その後、一連の強引な手法に反対する勢力を糾弾し(安政の大獄)、世は混乱を極めていく。弾圧されていた水戸藩士らは、万延元(1860)年、桜田門外において井伊大老を暗殺。それが引き金となって全国に攘夷の嵐が吹き荒れることになる。尊皇攘夷運動は、保守色の強い土佐藩でも勃興していた。龍馬も武市半平太(瑞山)らがつくった土佐勤王党に加わる。

 文久2(1862)年は、龍馬にとってきわめて重要な年になった。まず、長州の萩城下において吉田松陰が将来を嘱望した久坂玄瑞と会い、その後、西郷や大久保の同志であった樺山三円とも交誼を結ぶ。江戸に出て剣術の修業をし、外国の脅威にさらされている姿を間近で見た龍馬は、危機感を募らせていたはずだが、そういう時期に国の行く末を憂える志士たちと出会ったことは、龍馬に大きな影響を与えたにちがいない。

 その年の3月、ついに龍馬は脱藩を決意する。当時、脱藩は大きな罪であった。事実、龍馬の脱藩を知った日の夜、姉・栄(乙女の上の姉)は自死している。残された家族にとって、龍馬の脱藩はかなりの痛手であったはずだ。

 しかし、それを承知で龍馬は国を捨てたのだ。もっと大きな大義のために……。

勝海舟との邂逅

 姉の死を知ったときの龍馬の心中を推し量ると、いたたまれない気持ちになる。龍馬は、自責の念があったからこそ、その後の人生を「忘我他利」の精神で生き抜くことができたのではないか。

 人は人との出会いによって大きく変わる。大きな犠牲をはらって脱藩し、江戸に出た龍馬にもそのような出会いが待っていた。幕府の軍艦奉行並・勝麟太郎(海舟)との出会いである。脱藩した年の10月、龍馬は勝に会い、すぐさま彼の気宇壮大な思想に魅了され、門下生となる。勝は幕府から日本海軍創設の一任を与えられていたが、国力を増強した後、不平等条約を改正し、真の独立国家たらんという構想を抱いていた。ただ、やみくもに〝外国人を追い払え〟と唱え、過激な行動に走っていた尊皇攘夷派とは明らかにちがって見えた。

 龍馬は、幕臣にも勝のような開明思考の人物がいることに驚き、物事を多面的に見ることの重要性を学ぶ。同郷の壮士・武市半平太との最大のちがいは、その一点にある。とはいえ、歴史の推移のなかで武市のような役割の人物も必要であることは明白である。要は、それぞれが果たすべき役割を果たしたとき、歴史の転換点が現れるということだろう。

 勝に会った後の龍馬は、乙女姉にあて、「この頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人になり〜(途中略)、すこしエヘン顔しており申候」と書いている。よほど嬉しかったのだろう。

 また、慶応元年、乙女姉にあてた手紙には、「じつにお国(土佐)のような所にて何の志もなき所にぐずぐずして日を送るは、じつに大馬鹿ものなり」と書いている。自分を取り巻く状況が急速に変転し、そういう状況において重要な役割を担っているという自負も日増しに大きくなっていった。

 ところで、龍馬の先見性を示す有名なエピソードがある。

 龍馬の同志・檜垣清治が当時流行していた長刀をさしているのを見て、龍馬は「いざというときに役にたたない無用の長物だ」と言い、短い刀を見せた。次に会ったとき、短い刀をさしている檜垣に対し、「これからは西洋の武器だ」と言って胸からピストルを取りだして一発撃った。さらに数ヶ月後、龍馬は檜垣に対して、「これからは武器だけでは役にたつまい。俺は今、これを読んでいる」と言って『万国公法』を見せたという。このエピソードが本当かどうかは疑わしいが、龍馬の先見性がよく表れている。事実、いろは丸が沈没した際、龍馬は徳川御三家の威をほこる紀州藩と談判に臨み、ついに公法による決着を勝ち取っている。その後、いろは丸沈没事件の交渉は、日本の海路定則を決定づけることになる。

 また、海援隊のなかに一人だけ、佐幕論を唱えている者がいた。同志たちはそれを嫌い、除名を要求したが、龍馬は「数十人の同志のうち、わずか一人の異論者を包容しきれないでどうするか」と軽くいなしたという。龍馬の懐の深さを示してくれるエピソードである。

薩長同盟

 尊皇攘夷を藩の方針に掲げた長州藩は、次第に孤立化していく。元治元(1864)年、長州藩は蛤御門で会津藩、薩摩藩との戦いに敗れたうえ朝敵の汚名を着せられ、さらに下関海峡を通航中のアメリカ商船に向かって砲撃をしたカドでアメリカなど4国連合艦隊から砲撃を受け、砲台を占拠されてしまう。

 この事件の報に接し、龍馬は憤慨し、乙女姉に「あきれはてたることは長州を攻めた外国の軍艦を江戸で修復したこと。これはみな幕府の姦吏が夷人と内通しているからだ」という手紙を書いている。続いて、そのため江戸の同志と心を合わせ「日本をいま一度せんたくいたし申し候」と有名な文言を続けている。

 幕府側の行動に腹を立てる龍馬だが、幕府の対応はさらに厳しかった。青息吐息状態の長州藩相手に、第一次長州征討軍を編成する。後に討幕派の急先鋒と成る薩摩藩だが、この当時、西郷隆盛は強硬な長州征討論者だった。薩長同盟締結にあたり、長州が薩摩を容易に信じなかったのは、そのような経緯もあったからだ。

 あらためて当時の長州藩の動きを見るにつけ、吉田松陰の影響力に感服する。長州は幕府と真っ向から対立する道を選んだ。ということは、全国の300余藩をも敵に回すということだ。そのための覚悟は相当なものがあっただろう。その覚悟の礎になったのが、ほかならぬ松陰の教えであったのではないか。

 話をもとに戻そう。

 王政復古による統一日本を形成するために、龍馬は薩長2藩の連合運動に挺身することを決意する(ちなみに、そのアイデアは龍馬独自のものではなく、勝海舟や大久保一翁など幕府側の人間だとされている)。

 龍馬は、桂小五郎(木戸孝允)や西郷隆盛と何度も会談を重ね、犬猿の仲であった薩長2藩の同盟をついに締結させる。ときに慶応2(1866)年のこと。その後は、川が低い方へ流れるかのように、徳川幕府は瓦解への道を早めることになる。朝廷を威圧して第2次征長の勅命を得るが、それに従う藩は減るばかりだった。

 蛇足ながら、互いに疑心暗鬼であった薩長を結びつけるまでのプロセスは、ときに笑ってしまうほど滑稽である。両藩とも同盟という果実をすぐにでも得たいのだが、それぞれにメンツがある。どちらから提案を出すかということに始まり、長州藩から送られた米500石の受け取りを薩摩藩が拒否するとかしないとか、あるいは薩摩藩の名義で武器を調達することで歩み寄れるかどうかなど、最初は互いの腹の探り合いが続いたが、その都度、龍馬が根気強く調整役に徹している。

 ここであらためて薩長同盟の意義を確認したい。薩長同盟は、倒幕のための軍事同盟と解釈されているが、それだけではない。当時、国内の各勢力は互いに意思疎通ができず、一触即発の感があったが、それは西洋列強が介入する機会を与えることでもある。その同盟締結によって、第2次征長など大規模な内乱を避けることができたということに着目すべきだ。もちろん、締結の当事者たちにそのような意識があったからにほかならないが、よくも綱渡り状態であれだけの交渉事ができたものだと感嘆するばかりである。

新国家構想

 薩長同盟と並び、龍馬の偉大な功績といえば、薩土盟約と船中八策だろう。薩長同盟に比べ、薩土盟約は印象が薄いが、その後に与えた影響を考えると、その価値は甲乙つけがたい。なぜなら、薩土盟約がなったことによって土佐藩が幕府に建言する環境が整ったからである。つまり、龍馬は藩の重役である後藤象二郎に対し、将軍慶喜が自ら政権を返上するよう建言する役目を土佐藩が担うべきだと説得するのである。常識では、元脱藩浪士に過ぎない龍馬が直接後藤にもの申すなどありえないことだ。

 龍馬は、長崎を出航した土佐藩船のなかで、後藤に「船中八策」を授け、それが山内容堂を経由して慶喜に届き、大政奉還へとつながるのである。朝廷を中心とした政治体制、議会の設置、人材の登用、条約改正、憲法構想など、明治新政府が取り組んだ難題のほとんどは、この船中八策に盛り込まれている。まさに龍馬の真骨頂という以外ない。

 ところで、なぜ、龍馬はこれほど自由な発想力をもつに至ったのだろうか。これは私見だが、あまり儒学を学んでいなかったことが功を奏したのではないかと思っている。同志の平井収二郎は、「元より龍馬は人物なれど、書物を読まぬゆゑ時として間違ひしことも御座候得ば、よくよく御心得あるべく」と言っている。龍馬は歌を詠む教養はあったが、漢籍はほとんど学んでいない。もちろん、四書五経は人間としての基本をつくる上で絶好の学問であり、その価値はいささかも減じるわけではないが、一方で、「述べて作らず、信じて古を好む」とあるように、弟子や年少の者が師や年長者を超えるような主張をしたり、独自の説を述べたりすることはあまり由とされていなかった。それがときとして、為政者に悪用されることにもなるのだが……。身分や年齢の上下にとらわれず、信念を貫き通すことができたのは、そのような理由もあるのではないか。

 龍馬は王政復古のための資金として300万両の贋金発行を主張していたこともあった。当面、それでしのぎ、ツケは明治新政府が払うというものだが、このようなとんでもない発想は、形式を重んじるばかりではけっして生まれてこないものだ。

 船中八策を授けてから約4ヶ月後、慶応4年11月15日、くしくも誕生日と同じ日に、京都の醤油商・近江屋の2階で、龍馬と中岡慎太郎は暗殺される。下手人は見廻組の今井信郎だとされているが、その後、今井は口を閉ざして一切語らず、熱心なクリスチャンとして生涯をおくっている。真相はいまだ明らかになっていない。

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