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紺碧の将

平和な社会の仕組みを設計した武将兼政治家

第5回 徳川家康

 よもや徳川家康を知らない日本人はいないだろうが、徳川家康を好きだと公言する日本人は少ないようだ。どうしてあれほど功績のあった人物が、現代の日本人に軽んじられているのだろうか。NHKの大河ドラマなどでは必ずと言っていいほど性悪なタヌキ親父に描かれている。そんな人物が天下をとれるはずはないと思うが……。

 どうやら日本人が情を寄せる歴史上の人物には、ある一定の条件があるようだ。たとえば志半ばで倒れた悲運の人(源義経、坂本龍馬など)、情の厚い人(大石内蔵助など)、負け戦と知ってあえて義を貫いた人(真田幸村、西郷隆盛など)。石田三成の人気の理由もその類だろう。

 日本人として、そういう心情もわからなくはない。一方で、ある人物の功績を客観的に検証し、情に左右されず公正に顕彰することは後生の人間の務めである。

 

 徳川家康の最大の功績をあげよと言われれば、それまでの武断政治から文治政治に変革させたということだろう。しかも、政治を担うのはそれまでと同じ、武士である。けっして文官ではなかったところがミソだ。

 明治5年に断行された廃藩置県もそうだが、社会の隅々に行き渡った既得権益を一掃するのは、猛スピードで走っている自動車を急に止めるようなもので、大きな反動は避けられない。明治維新後は武士階級や農民の不満が噴出し、さまざまな紛争が続出した。国内の動乱は西南戦争終結まで続いた。

 

 戦乱の世を平定させるには当然のことながら武力が要るが、平定した後、武士たちをどう処遇するか、これは極めて難しいテーマである。秀吉が全国を平定すると武士の働く場はなくなり、朝鮮出兵を強行させたことでもわかる。武力をもった人たちの働く場がなくなるというのは、社会の撹乱要因となるのだ。
 日本史を概観すると、武力によって体制が変わったあとの統治に成功した例は聖徳太子による新政とその後の律令国家体制の確立、徳川家康から家光までによる幕藩体制の確立、明治初期の廃藩置県後の中央集権国家体制の確立の3つが際だっているが、案外日本人はその術に長けているのかもしれない。世界史に詳しくはないが、外国でそのような事例はどれくらいあるのだろうか。

 

徳川家康の人物像

 

 徳川家康に対する一般的なイメージをランダムに羅列すれば、忍耐強い、権謀術数の策略家、怜悧な現実主義者あたりに落ち着くのではないか。

『東照宮遺訓』にある「人の一生は重荷を負ふて遠き路をゆくが如し、急ぐべからず」は家康の忍耐強さを、また、妻築山殿と長男信康が武田方と通じていると信長から嫌疑をかけられると妻を斬り長男を切腹させたが、そのエピソードは家康の冷淡さを表している。秀吉亡き後、着々と布石をうち、秀吉に恩顧のある武将たちを味方につけたあたり、かなりの策略家であり戦術家でもある。そのあたりが大衆受けしない要因なのだろうが、乱世を鎮めていくためには必要な過程だった。

 家康は1542(天文11)年、岡崎に生まれる。幼名は竹千代といった。

 六歳の時、今川家の人質になるため岡崎を発つが、その途上で織田軍に捕えられ、なんと織田家の人質になってしまう。その2年後、人質交換で今度は今川家へ。1560(永禄3)年、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れるまで、人質時代は10年も続くことになる。

 幼少期のこの体験が、その後の家康の人物造形に大きく影響を与えたことは想像に難くない。そのような体験をすれば、家康でなくても忍耐強くなるだろうし、人間を観察する目も養われるはず。

 永禄6年、家康と改名し、その5年後、今川家の領地を武田信玄と分割する協定を結び、三河・遠江六60万石の大名となる。

 幼年期に人質だったということ以外に、家康という人物を鍛えたもうひとつの要因は、周りに強大な勢力があったことであろう。東には戦国最強軍団を率いる武田信玄が、西には日本史上稀有の革命児織田信長がいた。彼らに挟まれながら、いかに生き延び、勢力を拡大していくか、家康は考えぬいたにちがいない。並の大名なら、いずれかに滅ぼされていたことだろう。

 しかし、前述のように武田と協定を結び、織田とは同盟関係にありながら事実上、忍従した。信長との同盟関係はその後20年に及ぶが、あの天才的かつ凶暴な信長とそれほどの長きに渡って良好な関係を維持できたこと自体、ただ者ではない。

 信長の死後、風向きを見て秀吉に臣従する。秀吉が天下統一を成し遂げること、しかし秀吉には日本全体を統治する能力に欠けていること、秀頼が全国を束ねる器ではないことなどを見抜いていたにちがいない。家康はじっと時の到来を待ったのだ。まさに「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」を地でいっている。

 家康には11人の男子がいたが、長男の信康は信長の「信」を、二男の秀康は秀吉の「秀」と自身の「康」を、三男の秀忠も秀吉の一字をもらっている。当時の家康の立場が子供の名前からも窺える。

 秀吉の死後、家康は満を持して行動に出る。関ヶ原の戦いは、日本を二分する戦いでもあり、応仁の乱のごとく泥沼の内戦が長期化するおそれがあったが、わずか1日でケリがついてしまったのは、小早川秀秋の寝返りなど些末な理由によるものではなく、もっと大きな理由によると私は思っている。すなわち、天下国家への思いの浅深であり、戦後どのような国にするのか、という理念の有無である。

 家康は戦後の宏大な構想を描いていたが、三成は秀吉の遺命を守り、秀頼をもり立てるという以外の動機をもたなかった。一見、三成に義がありそうだが、少し視点を引き、全体を俯瞰して見れば家康に大義がある。あのまま秀頼が日本の国主になっていたら戦乱の世が続いていた可能性が高い。そういう意味でも、西軍が敗れたのは必然であった。1日でケリがついてしまったことは、見えざる大きな力によるものだと言ったら極端に過ぎるだろうか。

 関ヶ原の戦いで勝った3年後の1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開く。その2年後、将軍の位を息子の秀忠に譲り、将軍職は徳川家の世襲であることを世に示した。そのことによって反家康勢力はさらに敵愾心を燃やすが、1615(元和元)年、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし、関ヶ原の後、くすぶっていた反家康勢力を一掃することに成功する。天下一統の翌年、没した。数え75歳の生涯だった。

 

他人にも自己にも厳しく

 

 家康は武力でもって全国を平定したにもかかわらず、功労のあった武将たちから武力を取り上げた。並のリーダーであれば、まちがいなく外国へ武力を向けたことだろう。前述したように、武士の本分は戦で手柄をたて、領地を増やしてもらうことにある。国内に敵がいなくなったということは、分け前にあずかれる土地もなくなったということ。言い換えれば、その時点で武士の存在意義はなくなったに等しい。だからこそ、江戸幕府が開かれても、各地の諸将の不満は一触即発の状態だった。それらの不穏な空気をどのようにして鎮めたのか、いくつか考えられる。ひとつは文治政治に切り替えたこと、もうひとつは人材登用の妙にあった。

 前者の一例は、元和元年の「一国一城令」。大名が居城する以外の領内の城郭をすべて破壊させたのである。大阪夏の陣直後に行ったこともうまく機をとらえたと言えるだろう。「鉄は熱いうちに打て」の言葉通り、勢いに乗じて一気呵成に諸武将の戦力を殺いだ。

 また後者の一例としては戦の功労者への扱いだ。家康の武力を支えてきたのは、三河以来の譜代家臣団であるが、関ヶ原後は彼ら家臣団の重用と併せ、優れた人物を抜擢した。一方で、文治組織が成熟するにつれ、時代にそぐわなくなった武将を取り潰しにしたり改易した。それまでの手柄を第一に考えるのではなく、次の世の中のために誰がふさわしいかという視点で人材を抜擢したのである。

 家康は他人に厳しかったが、自己にも厳しかった。家康の戦績において、最も惨めな敗北は、武田信玄との三方ヶ原の戦いである。信玄が西上する際、挑発にのって野戦を挑み、完膚なきまでに叩かれた。ほうほうの体で城に逃げ帰ると、家康はそのときの惨めな自分の姿を絵師に描かせた。ふつうの武士であれば、そんな情けない姿を後生に残すことなどしない。しかし、家康は戒めとするために、あえて恥ずべき自分を描かせ、その後の糧としたのであった。

 

国民が不幸ではない社会とは

 

 徳川家康は日本をどのような国にしたいと思っていたのだろうか。幼少期の人質時代の影響が後々まであったにちがいない。すなわち、子供が人質になどならない社会、戦争がない社会でもあり、人と人の争いがない社会である。

 そこで着目したのが、人間はどのような理由で不幸になるか、ということだった。それを突き詰めていくと、ひとつの結論に達する。人間関係だ。人間同士のあらゆる争いも経済的な破綻も、あるいは孤立に追いやられるのも、そのほとんどが人間関係に起因する。さらに言えば、病気も遠因を探ればそこに行き着くことが多い。ということは、人間関係さえ円滑にいけば、社会の平穏は保たれ、同時に徳川政権も安定すると家康は考えた。

 そこで国作りの基本に据えたのが、儒学である。儒学に基づいて、まずは家庭における親子の関係を「孝」とし、長幼の序(年上の人を敬う)も基本に据えた。もちろん、年齢を重ねた人は、若い人から敬われるに足る人物にならなければいけないという社会風土も形成する。それらを徹底することによって、実際に無用な争いは激減した。子が親に孝行を尽くし、親は子に人としてのあるべき道を示す。年下の者は年長者を敬い、また年長者は敬われるに値する人物となるべく自分を律する。そういう規範が行き届けば、争いがなくなるのは当然のことだ。

 家康が聡明だったのは、そのような社会を構築するにあたり、誰もが理解できるように手本を示したことである。その代表例が後に近江聖人と言われる中江藤樹だ。中江は病床の母を看病するために脱藩して郷里に戻った武士だが、それまでの価値観であれば、武士にあるまじき行為として厳罰に処されていたはずだ。しかし、家康は、それこそ人として正しい生き方であるとお墨付きを与えたのである。さらに、林羅山信勝を側において、儒学の根本を説かせることにした(その後、林家は大学頭となる)。

 儒学が人間形成教育においてそれほど成功した事例は古今東西、ほかに類例がないだろう。幕末に日本を訪れた外国人は一様に日本人の優れた人格に驚嘆しているが、まさしく江戸期の教育の賜である。

 また、家康のブレーンといえば、天海と崇伝だが、いずれも仏僧である。にもかかわらず、国を治める根本を儒学においたことに家康の深い国家観が窺い知れる。

 徳川幕府に先立つ二つの幕府と比べると、統治システムのちがいが明瞭だ。鎌倉幕府と室町幕府は武士を統治したが公家や寺社に対しては間接的にしか関わらなかった。一方、徳川幕府はすべてを統治した。朝廷が倒幕工作できないよう、厳重な備えをした。つまり、家康は諸国の大名を屈服させるにとどまらず、公家や寺社を治めることによって、再び戦乱の世になることを防いだともいえる。戦国時代の僧兵などを思い起こすまでもなく、寺社は大きな戦力をもっていたし、公家が有力な武将を担いで戦を始めたこともあった。

 徳川の幕藩体制は政治システム、経済システムの両面からも現代人が学ぶべき点がいくつもある。

 まず、地方分権をいち早くやってのけたという点だ。中央集権と地方分権のバランス、それこそが幕藩体制と言われる所以だが、地方(藩)に多くの権限を委ねることによってその地域特有の文化が育まれ、参勤交代によって江戸の文化との折衷が生まれた。貨幣鋳造は幕府、紙幣(藩札)は各藩というように、経済の振興においても中央集権と地方分権のバランスが巧妙に計られていた。

 東京が現在のように発展したのは家康のおかげだ。当時、江戸は湿地帯で、太田道灌が築いた小さな城があっただけの小さな都市だった。家康は日比谷から南へ一里四方を埋め立てる計画を実行し、巨大な城郭都市を建設したのである。

 

家康の負の面

 

 しかし、家康にも功罪双方あったのは否めない。戦のもとを断つためとはいえ、身分を固定するなど、かなり自由を制限したことは事実である。長幼の序は社会の活性化を削ぎ、硬直化をもたらした。身分の固定は社会を安定させるにちがいないが、それによって面白みのない社会になったのは明白だ。

 家康の治世のキャッチフレーズといえるものが「厭離穢土、欣求浄土」だが、前者は下克上を真っ向から否定するものであり、後者は階級社会や礼儀などを礼賛するものである。ある程度自由が制限されるのは当然のことだった。ただ、それを徹底させたことによって260余年もの長きにわたって平和な社会が続いたことはまぎれもない事実だ。

 つまり、家康が不人気なのはドラマ性に欠けるということだろう。破天荒な発想も行動もなかった。比叡山を焼き討ちしたり、人間の移動と自由な商いを奨励した信長を主人公にしたドラマは無数に描けるだろうが、家康はタヌキ親父にする以外ない。そのあたりが地味と言われる所以だ。

 しかし、政治家とはかくあるべきだともいえる。すべての国民が百パーセント満足できる政策などありえない。それを知ったうえで「自分はこういう社会を建設したい」という明白なビジョンを掲げ、実践したところに家康の真骨頂がある。多少の欠点など、とるに足りない。

              

家康の神格化計画

 

 家康が死の直前の1616(元和2)年4月2日、病床に本多正純、南光坊天海、金地院崇伝らブレーンたちを呼んで、自らの死後の処理を申し伝えたという話が崇伝の日記に書かれている。すなわち遺体は駿河の久能山に葬り、葬礼は江戸の増上寺にて行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌を過ぎて後、日光に小堂を建てて勧請すべき、と。これは崇伝と天海が授けた、死して後に家康が鎮守となる壮大なコスモロジーの全体シナリオである。

 まず、久能山を真西へ進むと松平広忠夫妻が祈願して家康が誕生したと言われる鳳来山東照宮へつながる。さらに真西へ進むと、家康が生まれた岡崎城につながり、またまた西へ進むと京都につながる。

 一方、久能山→富士山→というルートの延長線上に、徳川氏祖先の地・世良田東照宮があり、その延長線上に日光がある。そして、江戸から日光は真北。日光のてっぺんには北極星が。これが〝神話〟のあらすじだ。

 しかし、ひとつだけ予期しないことが起こった。孫の家光が祖父を尊敬するあまり、小堂のはずだった日光東照宮を改修し、壮大な神宮へと変えたのだ。それ以外は家康の遺言通りになった。

 

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