偉大な日本人列伝
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諸国を行脚し、命懸けで歌を詠む

第3回 西行

旅を住処とするは

 今でこそ、旅をしながらの詩作は風雅な芸ごとの一種だと思われているが、もともとは命懸けの行為であった。全身全霊を傾け、あたかも母親が子を産む時のような苦しみを伴って生み出すものであった。

 それを体現したのが、西行だ。

 西行は、佐藤義清という名の武士であった。しかも、北面の武士という恵まれた立場である。血筋をたどると奥州藤原氏ともつながる名門であった。

 ちなみに、北面の武士とは、天皇の警護を任されていた近衛兵のような役割で、武術はもとより、家柄や容姿の良さも求められた。南を向いて座っている天皇に対して、北を向いて相対するということから「北面」という表現になったとされている。つまり、当時の佐藤義清は、現代風に言えば、「仕事もできて家柄もいいイケメン男子」ということになる。その頃、北面の武士として鳥羽天皇に仕えていた頃の同僚に、平清盛がいた。

 しかし、ある日、その恵まれた環境を捨て、出家して全国を行脚しながら生涯を歌に賭けようと決意する。

 西行が生きていた時代を思えば、その決意がどれほど覚悟を必要としたことか、わかろうというもの。今のように道路が整備されているわけでもなく、どこへ行っても人が住んでいるわけでもない。日々の食料の確保にも苦労したであろうし、野宿を余儀なくされたことも多かっただろう。獣や夜盗の襲来によって命を落としそうになったこともあったろうし、病に罹っても治療法は限られていただろう。夏はまだしも、冬の陸奥行脚など、筆舌に尽くせぬ苦難の連続であったにちがいない。

 しかし、だからこそ、諸国を行脚して創作をすることは、気力・体力ともに横溢した人でなければできなかったことであった。

 武士の条件のひとつに、「命の見切りをつけられる」ことがあげられる。だとすれば、それまで天皇を警護することに命を張っていた佐藤義清という武士が、出家・遁世して歌詠みに身を転じたとしても不思議はない。

 恵まれた境遇を捨て、歌の道に生きることを決意した様子が、『西行物語絵巻』に次のように表現されている。

 

 ――宿に帰りゆくほどに、年頃たえがたく愛ほしかりし四歳なる女子、縁に出でむかひて、父の来たるが嬉しさよとて、袖にとりつきたるを、類なく愛ほしく、目もくれておぼえけれども、これこそは煩悩のきづなをきるとおもいひて、縁より下へ、蹴落としたりければ、泣き悲しみけれども、耳に聴き入れずして、中に入りぬ。

 

 つまり、帰宅した父親に気づいて喜びながら袖にとりついてくる4歳の娘を可愛いと思いながらも、煩悩を断ち切る機会だとばかり、愛娘を縁から蹴り落とし、泣き声も聞き入れず家のなかに入る。

 このエピソードは虚構だとも言われる。が、事実でないとしても、これに近いことはしたかもしれない。

 佐藤義清のその行為を非難するのは簡単だ。現代人の常識から判断すれば、まことに非情だ。

 しかし同時に、命を張って何かと対峙したことのない人の判断でしかないことも事実だ。「異常さ」や「狂気」がなければなしとげられないものが世の中にはあまたある。小説史に残る崇高な作品『レ・ミゼラブル』を書いたヴィクトル・ユゴーや近代日本国家の礎を築いた伊藤博文の人格が、はたして現代に生きていたらどういう評価を下されていたかと思えば、わかりやすい。

逡巡する西行

 西行が生まれたのは、元永元(1118)年。鳥羽天皇の治世だが、院政の創始者とも言える白河法皇が権勢を奮っていた時代である。

 保延6(1140)年、23歳の時、佐藤義清は出家し、名を西行と改める。

 なぜ、現世を捨て遁世しようと思い立ったのか、そのいきさつは明らかではない。武士の身分でありながら公家社会の権謀術数を見る立場にあったことから、厭世観を強めていったと見るのが妥当だろうか。

 その頃の心境を表した歌がある。

 

 そらになる心は春のかすみにて世にあらじとも思ひ立つかな

 

 不安を覚えながらも晴れ晴れとした心の様子が読み取れる。

 しかし、西行は人恋しさからか、すぐに人里を離れるようなことをしなかった。というよりも、「できなかった」と言うべきだろう。

 前述のように、12世紀当時、住居をはじめ、すべてを捨て去って身ひとつになるということは、猛獣がどこにいるともわからないサバンナに放たれるようなもの。相当な覚悟をもって出家したものの、諸国行脚に出る勇気は得られなかったにちがいない。

 その頃の心境をこう綴っている。

 

 世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬわが身なりけり

 

 可愛い盛りの娘を縁から蹴落としてまで覚悟を決めた出家であったにもかかわらず、住み慣れた都を立ち去ることができない自分に対する憐憫の情が入り交じっている。

 結局、西行も生身の人間であったのだ。

憧れの陸奥へ

 ようやく京の草庵を離れたのは、27歳の頃である。

 西行は陸奥へと向かった。坂上田村麻呂が東征して以来、当時の都人にとって陸奥は全貌知られざる魅惑の地であった。

 その地を見たいという願望と出家の決意を新たにするという意識が相まって、近隣への旅ではなく、本州・北の最果てへの行脚を選んだのだろう。

 陸奥への行脚において、ひとつのキーポイントとなるのが、白河の関である。白河の関は、奈良時代、蝦夷の南下を阻止するために白河(現在の福島県白河市)に設けられた関であるが、西行を遡ること約200年前に能因法師が歌を詠んだ場所でもある。

 白河の関に到達した西行は、次のような歌を詠んでいる。

 

 都出でて逢坂越えし折までは心かすめし白川の関

 

 長い旅路の果てに、ついに陸奥の地を踏んだことの充足感が表れている。

 その後、西行は北上を続け、雪の降る季節、平泉に辿り着く。自身の血脈に通ずる奥州藤原氏が拠点とする地であり、一族の栄華が真っ盛りの頃である。

高野山、そして保元の乱

 30歳の頃、西行は高野山に入り、以後、約30年間、そこを拠点に創作活動と仏僧としての行を積むことになる。

 なぜ、高野山なのか。これも詳細は明らかではないが、空海(弘法大師)への憧れがその最大の理由ではないか。四国を旅したおりも、空海の足跡を追って遍歴している。

 空海の存在はひときわ激烈であったにちがいない。そのアバンギャルドさにおいて、空海に比肩する宗教家は日本国内にはいない。予定の年限を待たずに中国(唐)から帰国し、またたく間に日本の仏教界に革命的な変化をもたらした。それはまるで既得権益が複雑に絡み合い、硬直化している政治の世界にいきなり飛び込んだ一人の若い政治家が、いともあっさりと政権を奪取したようなものである。

 そんな空海が西行にどのような影響を与えたのか詳しく調べ、記述したいが、紙幅の関係で断念することにする。いずれにしても、高野山時代の西行は、そこを拠点として京や信濃、四国へと放浪し、また、西住ら隠遁歌人と交流を深めながら歌の道を深めていくことになる。

 

 その頃、大きな事件が勃発する。保元元(1156)年に起きた保元の乱である。

 保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇という政治的対立によって引き起こされた争乱だが、それに敗れた崇徳上皇と西行は誼があった。讃岐に流された崇徳天皇は、そのまま配所で崩御するが、後年、西行は崇徳院の慰霊をするため、讃岐へと旅立っている。

 旅の途上、西行はさまざまに思いを巡らせたにちがいない。わけても、人の命のはかなさを再認識せずにはいられなかったはずだ。

 そのことは、一方で西行の創作に深みをもたらした。はたして、いつ頃の作品か知らないが、円熟に入りつつある西行の境地が表れている歌がある。

 

 番わねどうつればかげを友として鴛鴦住みけりな山川の水

 

 さほど有名な歌ではない。しかし、筆者はことのほか好きな歌である。

 これほど静寂と透明感に満ちた歌は珍しい。

 澄み切った川に一羽の鴛鴦が浮かんでいる。本来、鴛鴦は「おしどり」という異名があるくらい、つがいで行動するのが常だが、西行の目の前にいるのは伴侶を失った鴛鴦。しかし、ゆったり流れる川の水面に鴛鴦の影が映っている。西行はその影を伴侶と見てとり、その鴛鴦を自分と重ね合わせているのだ。

 まさしく、明鏡止水。静かで清らかな光景が目に浮かぶ。

伊勢二見浦へ移住

 60歳を過ぎた治承四(1180)年、西行は伊勢へ移り、二見浦の山中に草庵を結ぶ。

 伊勢を参拝した時の歌と伝えられる、有名な作品がある。

 

 何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

 

 本来であれば、本地垂迹に知悉していた西行は、その晩年を日本の神々が棲む伊勢で平穏に過ごすことができたはずだ。しかし、世の中は混沌としていた。

 西行の元同僚・平清盛がクーデターを起こし、福原遷都を決行していたのだ。その後、伊豆で源頼朝が、木曽で木曽義仲が相次いで挙兵、局地戦は一気に源平の総力戦へと発展する。やがて壇ノ浦で平氏が滅亡するまで戦乱の世は続くが、西行は清盛と旧知の間柄ということで、高野山の扱いをめぐって清盛との交渉役にも選ばれている。また、西行の出自がそうさせたのか、二度目の陸奥行きの途上、鎌倉の頼朝に喚ばれ、歌談義に興じたと『吾妻鏡』に描かれている。

 その際、頼朝から「歌の道は?」と訊かれ、次のように答えている。

 ――詠歌は花月に対して感を動かすの折節、わずかに三十一字を作るばかりなり。全く奧旨を知らず。然れば是れ彼れ報じ申さんと欲する所無しと〜。

 

 自然の移ろいに対する心のあり方以外に奥義はない、と答えている。

自歌合の加判を若きライバルに託す

 鳥羽院が中心になって編纂した勅撰集『新古今和歌集』に最も多く選ばれたのは西行で、94首を数える。もはや当代並ぶ者なしというのは自他ともに認めるところだっただろう。

 歌人として圧倒的な高みに登り詰めた感のある西行だったが、晩年、面白い行動に出ている。自作の中からベストと思える72首を選び、36組からなる自歌合をつくったのだ。歌合とは、歌人たちが二手に分かれ、それぞれが詠んだ歌を第三者が優劣を判定するというものだが、西行は自分の歌だけで『御裳濯河歌合』と『宮河歌合』という歌合を作り、前者の判者を藤原俊成に、後者の判者を44歳下の若きライバル・藤原定家に決め、腰を低くして引き受けてくれるよう懇願している。死の3年ほど前のことである。

 これにはさすがの定家も相当手こずったらしいが、西行は命懸けで生み出した自信作に対して、次代を担う定家がどのような判定、そして評価を加えるのか、最期に見届けたかったにちがいない。

芭蕉への影響

 西行から遅れること526年、この世に生を受けた松尾芭蕉は、それまで順調だった上水道事業を畳み、四十歳を過ぎて俳諧の道に生きることを志し、江戸の庵を発った。

 なぜ、芭蕉は恵まれた環境を捨てたのか。

 西行の生き様に憧れていたから。それに尽きると思う。

 人間が尋常ならざるパワーを得るきっかけというものはじつに多様だが、「憧れ」も大きな力を産む源泉であるのはまちがいない。

 芭蕉は紀行『笈の小文』の中で次のように書いている。

 ――西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへりとなり。

 

 とどのつまり、四人の先輩芸術家に通底するものは同じ、自然を見て俳諧を感じないのは未開人に同じ、心の中に俳諧をもたないのは鳥獣に同じと言っている。

 西行の偉業があって、芭蕉の偉業につながる。人間の感化力が絶大であるという証だ。

桜、そして死生観

 西行と言えば、桜。桜をモチーフにした歌はたくさんあるが、紙幅の関係上、2首だけあげたい。

 

 春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

 

 願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ

 

 西行は願い通り、建久元(1190)年2月16日、つまり望月の頃、河内国の弘川寺で円寂した。その前年、奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされている。西行はどんな感懐を胸に最期の瞬間を迎えたのであろうか。

 

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