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時代を代表する人物と交わった、スケールの大きな歌人

第3回 西行

 いまでこそ、旅をしながらの詩作は風雅な芸ごとだと思われているが、西行が生きていた時代はそんな生易しいものではなかった。命をかけ、全霊を傾け、母親が子を産むかのように自らの分身のように生み出すものであった。

 すこし考えてみよう。平安末期から鎌倉初期にかけてのわが国の事情を。京都など一部を除いてほとんどの地域は、人間が安心して旅をできる状況ではなかった。道路が舗装されているわけではないし、公共の交通機関があるわけでもない(新幹線を使っても京都から平泉まで12時間以上かかる)。宿がたくさんあるわけではないし、民家だってすくない。食料を得るだけでも一苦労するし、凶暴な獣や野盗に襲われる可能性もある。病に罹っても治療法は限られていた。季節のいいときはまだしも、冬の北日本行脚など、筆舌に尽くせぬ苦難の連続であったにちがいない。そんな時代に、武器も金も持たず、京都から陸奥を歩いて往復するなど、気ちがい沙汰にひとしい。

 

恵まれた境遇を捨てて

 

 西行の元の名は佐藤義清(のりきよ)といい、血筋をたどると奥州藤原氏ともつながる名門であり、鳥羽院の北面の武士だった。北面の武士とは、天皇の警護を任されていた近衛兵のような役割で、武術はもとより、家柄や容姿の良さも求められた。南を向いて座っている天皇に対して、北を向いて相対するということから「北面」という表現になった。つまり、当時の佐藤義清は、現代風に言えば「仕事もできて家柄もいい、イケメン男子」ということになる。その頃、北面の武士の同僚に、平清盛がいた。

 しかし、ある日、その恵まれた環境を捨て、出家して全国を行脚しながら生涯を歌に賭けようと決意する。

 恵まれた境遇を捨て、歌の道に生きることを決意した様子が、『西行物語絵巻』に次のように表現されている。

 ――宿に帰りゆくほどに、年頃たえがたく愛ほしかりし四歳なる女子、縁に出でむかひて、父の来たるが嬉しさよとて、袖にとりつきたるを、類なく愛ほしく、目もくれておぼえけれども、これこそは煩悩のきづなをきるとおもいひて、縁より下へ、蹴落としたりければ、泣き悲しみけれども、耳に聴き入れずして、中に入りぬ。

 

 つまり、帰宅した父親に気づいて喜びながら袖にとりついてくる幼い娘を可愛いと思いながらも、煩悩を断ち切る機会だとばかり、愛娘を縁から蹴り落とし、泣き声も聞き入れず家のなかに入るというのだ。このエピソードは虚構だとも言われる。が、事実でないとしても、これに近い決心はあったかもしれない。

 佐藤義清のその行為を非難するのは簡単だ。現代人の常識から判断すれば、まことに非情だ。しかし、命を張って何かと対峙したことのない人の判断でしかないことも事実だ。

 

逡巡する西行

 

 西行が生まれたのは、1118(元永元)年。摂関政治から武家支配に変わってゆく時代である。40(保延6)年、23歳のとき、義清は出家し、名を西行と改める。

 なぜ、現世を捨て遁世しようと思い立ったのか、そのいきさつは明らかではない。武士の身分でありながら公家社会の権謀術数を見る立場にあったことから厭世観を強めたと見るのが妥当かもしれないが、私はちがう見方をしている。むしろ人間の愚かな行為も含め、山川草木、森羅万象がいとおしく、世の中に積極的に関わっていきたい思ったからこその出家だったのではないだろうか。なぜならば、出家してからも、否、出家したあとこそさまざまな人物と深く関わっていくことができたからだ。たとえば、北面の武士に引き立ててくれた鳥羽院とその女院(待賢門院璋子)、皇子・新院(崇徳院)ら天皇家の面々、歌を通じて強い絆を築いた藤原俊成、北面の武士時代の同僚・平清盛や藤原秀衡、源頼朝ら武士……。まさに当時のオールスターである。

 なぜ、それができたかといえば、出家することによってニュートラルな立ち位置を得たからである。時代が下り、松尾芭蕉は西行に憧れて歌枕を詠んだが、平和な時代ということもあり、芭蕉のまわりの人物はいかにも小粒、人間関係の多彩さにおいて西行とは比べるべくもない(そのかわり、市井の人々の感懐を汲むうえではプラスに作用したとは思うが)。

 とはいえ、出家当時の西行にはかなりの戸惑いもあったようだ。その頃の心境を表した歌がある。

 

  そらになる心は春のかすみにて 世にあらじとも思ひ立つかな

 

 晴れ晴れとした心の裡に一抹の不安を読み取ることができる。

 案の定、西行はすぐに人里を離れるようなことをしなかった。というよりも、「できなかった」。

 その頃の心境をこう綴っている。

 

  世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり

 

 覚悟を決めた出家であったにもかかわらず、住み慣れた都を立ち去ることができない自分に対する憐憫の情が入り交じっている。とどのつまり、西行も生身の人間だったのだ。

 

憧れの陸奥へ

 

 ようやく京の草庵を離れたのは、27歳の頃である。

 西行は陸奥へと向かった。坂上田村麻呂が東征して以来、当時の都人にとって陸奥は全貌知られざる魅惑の地であった。

 陸奥への行脚において、ひとつのキーポイントとなるのが、白河の関である。白河の関は、奈良時代、蝦夷の南下を阻止するために白河(現在の福島県白河市)に設けられた関であるが、西行を遡ること約200年前に能因法師が歌を詠んだ場所でもある。白河の関に到達した西行は、次のような歌を詠んでいる。

 

  都出でて逢坂越えし折までは 心かすめし白川の関

 

 長い旅路の果てに、ついに陸奥の地を踏んだことの充足感が表れている。

 その後、西行は北上を続け、雪の降る季節、平泉に辿り着く。自身の血脈に通ずる奥州藤原氏が拠点とする地であり、一族の栄華が真っ盛りの頃である。

 西行が一気に内面の充実を見せるのは、はじめての陸奥への旅を終えてからだ。この世のすべては無常。しかし、それを歌に封じ込めれば、その好さは永遠に消えることはない。その歌が後の世の人たちに親しまれている限り。そう悟ったとしか言いようのない傑作が次々と生み出された。

 

高野山、そして保元の乱

 

 30歳の頃、西行は高野山に入り、以後、約30年間、そこを拠点に創作活動と仏僧としての行を積む。

 なぜ、高野山なのか。空海(弘法大師)への憧れがその最大の理由ではないか。四国を旅したおりも、空海の足跡を追って遍歴している。

 空海の存在はひときわ大きかったにちがいない。アバンギャルドさにおいて、空海は飛び抜けている。予定の年限を待たずに中国(唐)から帰国し、またたく間に日本の仏教界に変革をもたらした。それはまるで既得権益が複雑に絡み合い、硬直化している政治の世界にいきなり飛び込んだ一人の若い政治家が、いともあっさりと政権を奪取したようなものであろう。

 高野山時代の西行は、そこを拠点として京や信濃、四国へと放浪し、すぐれた歌人と交流を深めながら歌の道を深めていった。

 ある、大きな事件が勃発する。1156(保元6)年に起きた保元の乱である。

 保元の乱は、皇位継承問題によって崇徳院と後白河天皇が対立したことによって引き起こされた争乱だ。崇徳院の行く末を案じる西行は、崇徳院と後白河帝の間をとりもとうと奔走するが、大きな流れを変えることはできなかった。敗れた崇徳院は讃岐に流され、そのまま配所で崩御するが、後年、西行は崇徳院の慰霊をするため、讃岐へと旅立っている。

 旅の途上、西行はさまざまに思いを巡らせたにちがいない。わけても、人の命のはかなさを再認識せずにはいられなかったはずだ。

 そのことは、一方で西行の創作に深みをもたらした。はたして、いつ頃の作品か知らないが、円熟に入りつつある西行の境地が表れている歌がある。

 

  番わねどうつればかげを友として 鴛鴦住みけりな山川の水

 

 さほど有名な歌ではない。しかし、筆者はことのほか好きな歌である。これほど静寂と透明感に満ちた歌は珍しい。

 澄み切った川に一羽の鴛鴦が浮かんでいる。本来、鴛鴦は「おしどり」という異名があるくらい、つがいで行動するのが常だが、西行の目の前にいるのは伴侶を失った鴛鴦。しかし、ゆったり流れる川の水面に鴛鴦の影が映っている。西行はその影を伴侶と見てとり、その鴛鴦を自分と重ね合わせているのだ。

 明鏡止水。静かで清らかな光景が目に浮かぶ。

 

伊勢二見浦へ移住

 

 60歳を過ぎた1180(治承4)年、西行は伊勢へ移り、二見浦の山中に草庵を結ぶ。

 伊勢を参拝したときの、有名な歌がある。

 

  何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 

 本地垂迹に知悉していた西行は、その晩年を日本の神々が棲む伊勢で平穏に過ごすことができたはずだ。しかし、世の中は混沌としていた。

 西行の元同僚・平清盛がクーデターを起こし、福原遷都を決行したのだ。その後、伊豆で源頼朝が、木曽で木曽義仲が相次いで挙兵、局地戦は一気に源平の総力戦へと発展する。西行は清盛と旧知の間柄ということで、高野山の扱いをめぐって清盛との交渉役にもなっている。また、二度目の陸奥行きの途上、鎌倉の頼朝に喚ばれ、歌談義に興じたと『吾妻鏡』に描かれている。

 その際、頼朝から「歌の道は?」と訊かれ、次のように答えている。

「詠歌は花月に対して感を動かすの折節、わずかに三十一字を作るばかりなり。全く奧旨を知らず。然れば是れ彼れ報じ申さんと欲する所無しと」

 自然の移ろいに対する心のあり方以外に奥義はない、と答えたのだ。

 

自歌合の加判を若きライバルに託す

 

 世俗的な欲を断ち切っていたはずの西行だが、勅撰集に自作が選ばれることを強く願っていた。『詞歌集』では詠み人知らずという表記で1首だけ選ばれたにすぎないが、『千載集』では18首が、鳥羽院が中心になって編纂した『新古今和歌集』では入撰数トップの94首が選ばれている。

 歌人として圧倒的な高みに登り詰めた感のある西行だったが、晩年、面白いことを思いつく。仏師が仏像を彫って寺院に献じ、本堂に安置してもらうのと同じように、歌を作って、それを寺社に献し、神々の法楽に資してよいのではないかと考え、歌合をつくることを着想したのだ。

 歌合とは、歌人たちが二手に分かれ、それぞれが詠んだ歌を第三者が優劣を判定するというもの。36番の歌合を二組選び、『御裳濯河歌合』と『宮河歌合』とし、それぞれに藤原俊成とその子・藤原定家に判者となってもらった。死の三年ほど前のことである。いわば、自作同士の歌合戦である。

 これにはさすがの定家も相当手こずったらしいが、西行は命懸けで生み出した自信作に対して、次代を担う定家がどのような判定、そして評価を加えるのか、最期に見届けたかったにちがいない。

 

芭蕉への影響

 

 西行から遅れること526年、この世に生を受けた松尾芭蕉は、それまで順調だった上水道事業を畳み、40歳を過ぎて俳諧の道に生きることを志し、江戸の庵を発った。

 なぜ、芭蕉は恵まれた環境を捨てたのか。

 西行の生きざまに憧れていたから、その一言に尽きると思う。

 人間が尋常ならざるパワーを得るきっかけというものはじつに多様だが、「憧れ」も大きな力を産む源泉であるのはまちがいない。

 芭蕉は紀行『笈の小文』のなかで次のように書いている。

――西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへりとなり。

 

 四人の先輩芸術家に通底するものは同じ、自然を見て俳諧を感じないのは未開人に同じ、心のなかに俳諧をもたないのは鳥獣に同じと言っている。

 西行の偉業があって、芭蕉の偉業につながる。人間の感化力は絶大である。

 

桜、そして死生観

 

 西行と言えば、桜。桜をモチーフにした歌はたくさんあるが、二首だけあげたい。

 

  春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

 

  願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月のころ

 

 西行は願いどおり、1190(建久元)年2月16日、望月の頃、河内国の弘川寺で円寂した。その前年、奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされている。

 西行はどんな感懐を胸に最期の瞬間を迎えたのであろうか。

 

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