偉大な日本人列伝
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紺碧の将

誰もやらないことを一手に引き受けた、裂帛の男

第1回 大久保利通

人が生まれるに天の配剤あり?

 

大久保利通

 人の出生に関して、天の配剤というものがあるとすれば、それはどのような理由に基づいているのか。イギリスの小さな港町で、ほぼ同時期にジョン・レノンとポール・マッカートニーが生まれる確率は天文学的な数字になると思うが、実際にそれが起きてしまった。同じように、幕末期に数百メートルと離れていないところに西郷隆盛と大久保利通が生まれたという奇跡は、ただの偶然とは思えない。根拠はなにもないが、なんらかの見えざる力が働いたとしか考えようがないのだ。

 有史以来、ほかに例がないほど長きに渡って平和が続いた江戸時代が終焉し、西欧列強の脅威に直面することになった日本は、ユーラシア大陸の東端に浮かぶ小さな島で、右も左もわからない赤子のような国だった。そのような状況下、西郷と大久保が生まれなかったら、日本はいったいどうなっていただろう。

 大久保利通が生まれたのは、1830(文政13)年。江戸幕府がアメリカなど5カ国と修好通商条約を結ぶのは1858(安政5)年だから、大久保が28歳のとき。元号が明治に変わるのはそれから10年後のことである。

 日本は近代国家としてのうぶごえをあげたものの、とうてい国の体裁を整えているとはいえない状態だった。憲法も法律もない。政治の仕組みも定まっていない。まともな軍隊さえない。産業の大半は農業で、交通などのインフラはなきにひとしい状態だった。

 さらに明治4年に断行された廃藩置県によって、多くの武士が身分を奪われ、世情は悪化の一途をたどっていた。やたら自尊心が高く、日本刀を腰に差した士族が巷に200万人も溢れていたのだ。明治維新は彼らの働きによって成就したが、一転して〝不要な人たち〟の烙印を押されたのだから、彼らの不満が沸騰するのは当然だった。戊辰戦争で勝利した薩長側にも新政府に不満をもつ者が多かった。まさに当時の日本は、四分五裂のありさまだった。

 西洋列強は、そんな日本をわがものにしようと、触手を伸ばしてきた。内憂外患というような生やさしい状況ではない。国内の混乱を制御しながら列強に対抗するのは、どれほど困難であったか、想像にあまりある。

 大久保利通は権力を一手に集め、〝有司専制〟と批判されながら、国内外の難事にあたった。そして不退転の決意で古い体制と決別させたのである。〝人柱〟となることをいとわず、近代国家創生のために大ナタをふるった彼の功績はもっと讃えられてしかるべきだが、残念ながら彼を評価する声は多くない。リアリズムを重視しない日本人独特の感性というべきか、事をなした人より、志なかばで悲運に見舞われた人にシンパシーが働くようだ。

 しかし、私たちがかつて人類史になかったような繁栄を享受していられるのは、あの時代の傑物たちが全霊を傾け、自分の役割をまっとうしたからである。

 

君子は器ならず

 

 大久保は革命家としてより政治家として秀でていた。しかも、狩猟型のリーダーだった。

 渋沢栄一は『経営論語』にこう書いている。

 ――私は大久保利通公にひどく嫌われたものであるが、私もまた大久保公をいつも厭な人だと思っていた。しかし、公が達識であったのには驚かざるをえなかった。公の日常を見るたび、「器ならず」とは大久保公のごとき人を言うのであろうと思っていた。

 渋沢は西郷隆盛も木戸孝允も「器ならず」の人物だったと評しているが、なかでも大久保のスケールに言及している。「器ならず」とは「論語」為政篇に出てくる「子曰く、君子は器ならず」のそれである。凡人は特定の役割しかないが、非凡な人は一技一芸に秀でた器を超えたものがあり、将に将にたる、奥底の知れない大きなところがあるというものである。

 

 ここで大久保が関わったこと、主導したことをおさらいしてみよう。

1、公武合体運動

 政治体制を公武合体(朝廷と幕府、雄藩が連携し政治を行う)の実現に向けて奔走

2、倒幕運動

 公武合体ができないと判断したあと、薩長土肥などが連携し、倒幕に方向転換する

3、版籍奉還

 既得権益解体の第一歩として、薩長土肥の4雄藩が天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)を返還する

4、廃藩置県

 藩を廃して県を置き、中央集権体制の基盤をつくる。実行者は山県有朋や鳥尾小弥太らだが、大久保も大きな役割を果たした

5、地租改正

 年貢米に代わり、税金を現金で納める制度を導入

6、内務省設置

 中央集権体制の基盤作りを急ぐためドイツに習って内務省を設置し、自ら内務卿となる

7、不平士族の鎮圧

 佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を次々と鎮圧。西南戦争では約7ヶ月を費やし薩摩軍を鎮圧した

8、外交交渉

 琉球問題で清と外交交渉し、成果を得る

9、殖産興業・富国強兵

 国の経済基盤を固めるため、主に民業の育成を図る。また失業した士族に授産を促した

 

 松本清張は『史観宰相論』でそう書いている。

 ──日本の宰相像はすべて大久保から発しており、そこから歴代の宰相が延長している。したがって、あとの宰相は名前だけを挙げればいいようなものである。

 

 しかし、そう言い切れるだろうか。大久保の採った政治スタイルは〝狩猟型〟〝アングロサクソン型〟だったといえる。日本には人間関係の調整に重きを置く政治家が多いが、そういう点では、松本清張の指摘は齟齬がある。

 現在、巷間で定着している〝冷たいリアリスト〟という大久保の人物像は、彼の死後、後世の人たちによって恣意的に形成されたと筆者は見ている。もうひとりの巨星、西郷隆盛の声望を高めるため、相対的に貶められてしまったと。

 しばしば人間は、歴史上の人物評に関し、恣意的に色づけをすることがある。その証拠に、維新から明治期を生きた同時代人の〝証言〟を見る限り、大久保への信頼は絶大である。あたかも超人を仰ぎ見るかのように、異口同音に絶賛している。先の渋沢栄一のほか、同時代に生きた傑物たちが大久保をどう見ていたか、いくつかの例をあげよう。

 

同時代の人物からの評価

 

 越前藩主だった松平春嶽は幕府側の人間だが、憎き敵であったはずの大久保についてこう述べている。

 ──古今未曾有の大英雄と申すべし。胆力に至っては世界第一と申すべし。維新の功業は大久保を以って第一とするなり。世論もともあれ、大久保の功業は世界第一とするゆえんなり。

 春嶽は西郷も高く評価しているが、「世界第一」とまでは言っていない。

 のちに総理大臣となる〝最後の元老〟西園寺公望はこう述べている。

 ──維新の創業に至りては、実に内外政治の困難なる事今日においては到底想像の及ばざるところなり。この時に当たり、もし大久保さん無かりせば明治政府は瓦解に終わりたるを確信す。

 大久保がいなかったら、明治新政府は倒れていただろうと直截に語っているのだ。

〝東洋のルソー〟と評された思想家・中江兆民はこう語っている。

 ──大政事家とは、一定の方向と動かすべからざる順序をもって政治を行い、俊偉の観があり、有言実行であり、真面目な人物である。大久保を徳川家康とともに、日本の大政事家に挙げる。

 生涯、家康を「徳川東照公」と呼び、尊敬した大久保が聞いたら、さぞ喜んだにちがいない。戦乱の世を経て権力を掌握した後、武断政治から文治政治に切り替えたことなど、家康と大久保はよく似ている。

 伊藤博文は長州藩出身だが、途中で木戸に愛想を尽かし、大久保に近づいていく。のちに初の総理大臣となる彼はこう評している。

 ──(大久保は)まことに度量の広い大きな方で、だれの系統だとかどの藩の出身かの区別をつけず、これはと思う人を推し、誠意を尽くして用いておられた。それゆえ人はみな心から服し、喜んで力を尽くしたのである。

 征韓論で袂を分かった副島種臣は当代きっての教養人だと言われていたが、清の実力者・李鴻章に対し、こう述べている。

 ――(大久保は)まことに前代未聞の豪傑である。

 

 後世の歴史家の大久保評もあげておこう。

 半藤一利は『文藝春秋』にこう書いている。

 ――(維新後の新政府の体たらくを批判した後)この危機を乗り切ったのは、ひとつには大久保利通のたぐいまれな政治センスが大きかったと思う。

 司馬遼太郎は、『翔ぶが如く』で大久保の本質をこう活写している。少し長くなるが、引用する。

 ――かれは日本国の政綱をまとめるにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷ともいえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。(略)この種の冷酷な拒否的態度と政策への断固とした集中力の発揮は、その当事者の精神の根底にいつでも死ねる覚悟がなければならず、大久保にはそれが常住存在した。(略)大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。

 慧眼という以外にない。

 石原慎太郎氏は、『私の好きな日本人』にこう書いている。

 ――西郷という人生かけての親友への友情よりも、大久保にとっては自ら預かることになってしまった日本という新生国家への忠誠心の方がはるかに大切だったのは自明で、もしも大久保が西郷との友情にかまけて政府を操り運営する仕事を投げ出してしまっていたら今日の日本はあり得なかったに違いない。

 渡部昇一は『世界に誇れる日本人』にこう書いている。

 ――人望という点でいうと、西郷にものすごい人気が出たから大久保にかげりがあるように見えるが、西郷と大久保が対立したときに大久保についた人は多い。薩摩の人でも西郷ではなく大久保を選んだ人は少なくなかった。西郷の弟の従道まで大久保についているほどだ。(略)大久保が人を惹きつける魅力は何か。一つは従う人に安心感を与えることだと思う。ビジョンがはっきりしているし、やると決めたことは必ずやる。

 西南戦争は新政府と薩摩軍の戦いだが、薩摩藩出身で西郷とともに鹿児島へ去った者は存外少ない。西郷を慕いながらも、大久保とともに留まるものが多かった。西郷の弟、従道でさえ大久保を選んだほどだ。

 

人事のリアリズム

 

 大久保は人物を見る目も優れていた。当時は自分と同じ出身藩の人材を優先的に登用することが常識だったが、大久保は能力がある者は分けへだてなく登用している。

 大久保は配下の陸奥宗光が自分を殺そうとつけ狙っていたのを承知していたが、いずれ国家のためになると信じ、官僚として使い続けた。その狙いどおり、陸奥は不平等条約改正という大きな成果を成し遂げた。

 明治8年、全権公使となってロシアとの交渉に当たり、樺太千島交換条約を締結した榎本武揚はもともと幕臣であり、戊辰戦争では箱館戦争まで抵抗したが、そのような人物でも公平に用い、榎本も期待に応えた。

 なぜ大久保が信頼されていたのか。その理由のひとつは、藩意識を早くに払拭し、公正な立場で能力を評価したからだろう。それゆえ出身地である鹿児島県の人たちには嫌われることになるが、内外に課題山積の状況下、有為な人物を登用した公正さは信頼を集める大きな要因となった。

 19世紀に生きた、ドイツの経済学者・マックス・ヴェーバーは、政治の本質を突いた言葉をいくつも残している。

 ──政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬいていく作業である。

 ──政治家に求められる資質とは、情熱と責任感と判断力であり、燃えるような情熱と冷静な判断力の二つが一つの魂の中でしっかり結びついていなければならない。

 政治家とはかくも困難で、だからこそ尊い職業なのである。中途半端な気持ちではけっして務まらない。真にエリート意識を持った、選ばれた人にしかなしえない仕事であり、獲物を狙う猛獣のような闘争心と高僧のような冷静さ、そして心の奥底には民への愛を抱いていなければならない。

 

外を見て内を知る

 

 政治家としての大久保を考えるとき、忘れてはならないのは、岩倉使節団の副使として外遊した際に感じた強烈な危機感から、終生逃れられなかったということ。使節団そのものの成果は、残念ながらほとんどなかった。はじめから最後まで、チグハグの印象は拭えなかった。

 しかし、大久保はじめ、100人以上もの人間が西欧社会を目の当たりにしたということだけでも有意義だった。のちに征韓論争で明治政府の主要人物が二分されるが、それは欧米を視察して欧米列強の力を目の当たりにし、近代化を急がなければ列強の餌食になってしまうという危機感に駆られた人たちと、国内に居残って政治を担った人たちの対立ともいえる。

 岩倉使節団の目的は、いくつかあった。ひとつには、欧米諸国の政治制度や産業を見聞して、日本の近代化の参考にすること。幕末に幕府が条約を締結した国々を歴訪して、元首に国書を奉呈すること。さらには、明治5年の条約改定期限にあたり、条約改正の予備交渉を行うこと。訪問国は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、オーストリア、スイスなど12ヶ国に及んだ。

 この訪問で、大久保や伊藤博文らはかなりの衝撃を受けた。軍事技術をはじめとした科学技術、交通基盤などの社会インフラ、国情に合った政治制度……どれをとっても日本とは比較にならないほど進んでいる。日本国内のできごとが遠い欧州の新聞に掲載されているのを見て、キツネにつままれたようになった。いつも冷静な大久保だが、イギリスでは「私のような歳を取ったものは、これから先のことはとてもダメじゃ。もう時代の流れに応じられんから引退するしかない」と移動中の汽車の中で弱音を吐く始末だったという。もっとも、次の訪問国フランスでは、軍人あがりの老人が議会に参加し、活躍している様子に感嘆し、勇気を得たようだ。

 大久保を感嘆せしめたのは、ドイツ(プロイセン)の宰相ビスマルクだった。彼はそれまでに立ち寄った国々で、ビスマルクの悪評をいやというほど耳にしてきた。しかし、彼は弱小国を列強に伍するほどの強国にした人物であることを知り、人の評価というのはあてにならない、自分の目で確かめる以外にないと認識する。

 それまで接した国々の権力者は、外交辞令を弄し、きれいごとをいくつも並べたが、ビスマルクはちがった。

「大国が利を争う場合、自国に利があるとみれば万国公法に固執するが、いったん不利となれば、軍事力をもって対処する。だから、公法はつねに守らなければならないというものではない。小国が自主の権利を守ろうとすれば、その実力を培う以外に方法はない」

 ビスマルクは、国家の均衡は万国公法に基づくものではなく、軍事力によるものだと教示したのだ。それ以来、大久保は日本が列強の魔の手を逃れるには産業を興し、軍事力を強化するという、いわゆる「殖産興業・富国強兵」以外にないと確信する。それ以降、大久保は不撓不屈の精神をもって国家経営にあたる。

 

火中の栗を拾う

 

 明治新政府は、維新の主体となった武士階級を否定することから始まった。武士をいくら集めても、西欧列強の軍事的脅威に立ち向かうことはできない。

 武士の世に終わりを告げたのは、明治4年7月14日。すべての藩に対し廃藩の勅語が下り、全国は3府72県となった。当初、藩主たちの多くは便宜的に廃藩が行われるだけで、また新政府から召し抱えられると思っていたらしいが、政府は本気で改革を断行したのである。

 廃藩置県の発端は、山県有朋邸における会合だとされている。長州藩の鳥尾小弥太と野村靖らが、ゆるやかな制度改革では内外の課題に対処できないとし、廃藩を主張した。それに山県、伊藤、大隈、井上馨らが同調し、西郷や大久保を説得した。大久保ははじめから廃藩置県を唱えたわけではないが、それによる反動の後始末は大久保と西郷によってなされたといっていい。

 200万人以上の士族たちは特権を奪われて生活はひどく困窮し、政府に対する憎悪を募らせることになるが、それがのちにさまざまな形で政府への反乱となって現れる。明治7年の佐賀の乱に始まり、明治9年の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして明治10年の西南戦争がそれだ。

 大久保は、不平分子に妥協せず、大政奉還後、徳川を追い詰めたときと同じ手法を用いた。反政府の士族に圧力をかけ、反乱を起こすと、短時日に殲滅している。

 なぜ、それができたのか。つねに命がけだからだ。もともと大久保は戦場の人ではなかったが、西郷と同様、死への恐怖心はなかった。

 明治天皇の側近だった米田虎雄は、こう記している(『大久保利通』佐々木克・講談社学術文庫より)。

  ──そのとき(佐賀の乱)の大久保公の沈勇には驚いてしまった。ウムと一言いったと思ったら、ドスンと一足踏みしめて、弾丸の降る中を平気で歩き出した。火の燃えるところまでは半里もあるのに、別に走るでもなければあわてるでもない。平然としてドシドシ歩いている。

 のちに東郷平八郎が日本海海戦において、敵の砲弾が飛んでくるなか、平然と旗艦三笠のマストに立っていたというのも、もしかすると薩摩の先輩・大久保にならったのかもしれない。

 大久保が洋行から帰朝してのち、殖産興業・富国強兵を国策として掲げたことはすでに書いた。それはすなわち、国民のだれもが働いて税金を納め、一定の年齢以上の男子が兵役に就くことを意味する。

 明治6年、大久保が主導した地租改正は、日本における税制の一大改革であると同時に、日本で初めて土地の私有権を認めて、土地の価格をつけたという点においてきわめて画期的である。

 地租とは、土地の価値に応じて税金を納める制度である。地価の3パーセントとし、地価の算定は米価を基準とした。現在の固定資産税のようなもので、現代人の感覚からすれば、とくだん新味のないものだ。

 しかし、当時の産業のほとんどが農業だったことを考えると、この制度は蛮勇を奮わなければできなかったということがわかる。2000万人以上もの農民は、江戸から明治に変わったとたん、年貢米ではなく現金で納税せよと押しつけられ、そのうえ、兵役まで課されたのである。収穫高に応じてかけられてきた年貢=税金が、収穫の豊凶にかかわりなく金納することを義務づけられたのだ。大久保も断腸の思いだった。しかし、だれかがやらなければいけなかった改革である。

 これによって日本中が反政府感情に燃え立った。「なにがご一新だ、どんどん暮らしがひどくなるばかりじゃないか」という不満が噴出した。さらに西郷らが下野したという情報が広まり、武士や農民は呼応した。農民一揆は各地で頻発し、前述したように不平武族は各地で反乱を起こした。

 

タフな外交術

 

 大久保は、それまでの日本の指導者が経験していなかった課題に直面することになる。

 外交交渉である。大久保の交渉術の特長は、なんといっても強靱でしなやかでタフということだろう。どんなに窮地に陥っても、あきらめない。のちに日露戦争時のポーツマス講和会議で見せた小村寿太郎の粘り腰は、大久保を範にしたのではないかと思うほどだ。

 1871(明治4)年、琉球島民が台湾に漂着し、うち54名が原住民によって殺害されるという事件が起こった。清国政府は、台湾人は化外の民であり、実効支配していない地域で起きた事件として責任回避した。そこで日本は台湾に出兵し、短時日で征圧した。

 この軍事行動に清国政府が激しく反発した。両国の話し合いは膠着状態になり、事態を打開するため、74(明治7)年、大久保が全権弁理大臣に任じられ、北京へ赴いた。フランス人法学者ボアソナードを相談役にし、万国公法を武器に、交渉することにしたのである。

 大久保は、台湾が清国の主権が及ばない地であれば日本が自由に処分できるものであり、清国の属国であれば台湾での虐殺行為の責任は清国にあるとし、万国公法を楯に主張したが、清国政府の老獪な外交戦術に遭って、ことごとく暗礁に乗り上げる。八方ふさがりになって退散を余儀なくされるような事態だった。

 進退極まったかに見えた大久保だが、崖っぷちに立って、いささかも動じない。談判で解決できなければ開戦あるのみと北京政府に迫ったのである。内心は、開戦などもってのほかだと思っているにもかかわらず、強気の姿勢に終始した。征韓論争では、盟友・西郷と袂を分かつほど内治に専念する時期だと主張したばかりだ。その後もたびたび会談が決裂しかけたが、そのつどこらえた。こらえては交渉の仕切り直しをする。

 業を煮やした英国公使は清国政府に賠償金を出すように助け船を出すと話を持ちかけたが、大久保は決然と断った。おもしろいもので、その毅然とした態度をイギリスは評価する。

 談判は7回に及んだ。戦争を辞さない構えの清国代表に対して、大久保は帰国せざるをえない状況に追い込まれるが、それでも食い下がって交渉に臨んだ。食い下がるが、へりくだることはみじんもない。大久保は怒れば怒るほど冷静になったと言われる。

 ついに清国政府は根負けする。日本に対する賠償に同意し、日本の台湾出兵は自国民を守るための義挙だと認めさせた。さらに台湾で殺害された犠牲者の遺族に対し、清国政府が賠償金を払うことで決着がついたのである。この講和によって、清国政府は琉球が日本の領土と正式に認めることとなった。

 大久保は困難に直面した場合の心構えをこう語っている。

「例えば或目的地に向ってゆくに当り、忽ち行詰りとなったならば、万難を排して踏破するなり、または迂回するなり、臨機に適当な手段を用いなければならぬ。其処で静定の工夫を回らしたならば、必ず何処にか活路が見出されるものである。そして行き着かんとする処に到達するものである。……行詰ってただ困ったと思うばかりでは、いつ目的地に達し得るやわからぬ。人間は行詰っても、行詰らぬように心がけていなければ大事業は成し遂げられるものではない。(『甲東逸話』勝田勝彌)

 その後、大久保は軍艦に乗って天津を訪れ、清の実力者・李鴻章と面会する。

 

地元で貶められ、敵地で崇められる

 

 福島県郡山市安積に大久保神社がある。大久保利通を祀った神社だ。社殿はなく、顕彰碑が立つだけだが、地元では「大久保様」と呼ばれているという。

 よくよく考えてみれば、不思議なことである。福島県郡山市といえば、戊辰戦争で激戦地となった会津と近い。西郷とともに官軍側の強硬派だった大久保は、福島県民の恨みをかっていてもおかしくはないはずだが、にもかかわらず祀られている。大久保神社の「大久保」は大久保利通のことだと知っている人は少ないかもしれないが、敵地で崇められていることに変わりはない。

 生誕の地・鹿児島で不人気というのはやむをえない。西南戦争では新政府のトップとして軍隊を郷里に派遣したのであるから。では、なぜ郡山市安積で大久保は崇められているのか。

 これには、安積野の疎水事業が関係している。大久保は、西南戦争が終結する前から、水利の悪い安積野に猪苗代湖から水を引く計画をたてていた。維新後最大のヤマ場となる西南戦争を戦いながら、同時に殖産興業にも注力していたのである。

 政治的にはこれといって特定の理念を掲げなかった大久保だが、産業政策については独自のものがあった。ただ、やみくもに国力の充実を図るのではなく、日本固有の民業を政府の支援によって改良を加え、国力を充実させようとした。

 廃藩置県を断行する側だったとはいえ、維新のためにともに戦ってきた士族たちから特権を取り上げるのは心が痛んだだろう。だからこそ、武士でなくなった彼らが生業で生きていけるよう、授産に力を入れるという目的もあった。鉄道や鉱山開発を重視する大隈重信や井上馨らに対し、民業を重視する政策を掲げたのは、そのような意図が透けて見える。

 授産には教育も含まれた。江戸の教育を受けてきた士族が教育に携わるのは、理にかなっている。明治期、士族によって創設された幼稚園が多いのは、このためである。

 また、大久保は莫大な外債を償還するためにも、輸出入のバランスをとることが重要だと考えた。そこで構想したのが、外国から資源を輸入し、加工して輸出するという加工貿易である。戦後、日本が復興するにあたって、官民あげて加工貿易型立国を掲げ、それが功を奏したが、その原型は大久保の発想にあった。

 大久保は、まだ開発の進んでいなかった東北地方に着目していた。土地は肥沃で滋味がある。そこを開墾すれば、士族授産にもなる。

 仙台湾の野蒜港はその一大拠点となるはずだった。世界との貿易に使用できる港湾を築き、運河・鉄道・道路を一体化させ、巨大な物流ネットワークを作るというものだった。残念ながら、完成からわずか3年後、台風によって突堤が崩壊した。もし、野蒜港がそのまま機能していたら、日本はいまとは異なった姿を見せていただろう。

 内務卿となった大久保は、一手に権力を集中させたが、濫用することはなかった。とりわけ、経済政策に関しては、国家の干渉は少ないほうがいいと考えていた。蚕糸業を発達させるという主旨で、次のように語っている。

「もしも蚕糸業者にみだりに干渉すれば、その業者の権利を侵し、奸商をのさばらせ、国費の無駄遣いとなり、外人の非難を招くおそれがある。奨励と干渉とはよく似ているが、大変な違いであるから注意して混同してはならない」(『大政事家 大久保利通』勝田政治)

 政府の規制を慎み、自助努力を促すという考えだ。大久保のその精神は、彼の死後、いたるところで花開いていく。

 

畏友と袂を分かつ

 

 大久保が命を張って決断する局面はいくどもあった。明治6年の政変(征韓論争)当時、大久保は参議の役職からはずれていた。西郷との正面衝突を避けるため、就任を逡巡していたのだ。

 しかし、西郷が朝鮮への使節として派遣されることがほぼ決まった時点で、大久保の肚は固まった。交渉が決裂すれば西郷が殺される可能性もある。

 参議に就任するにあたって、大久保は外国にいる息子に次のような遺書を書き残した。

 ──このたびの参議就任については熟慮を重ね辞退することも考えたが、昨今の情勢はまさに危急存亡のときであり、逃げるわけにはゆかない。そこでこの職を拝命して死力を尽くして天恩に報いようと思う。またこの役に適するのは自分しかなく、思い残すことなく取り組める。もし私に変事があれば、それを異国の地で聞くこともあろう。

 覚悟をもって参議に就任し、裂帛の気合で議論に臨んだ。だからこそ、どんな手も使った。そして、岩倉具視と謀って9回裏の逆転満塁ホームランのようなどんでん返しをした。

 これによって、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣ら政府の中枢を担っていた参議がまとめて辞任することになる。論争に勝ったとはいえ、大久保や岩倉、伊藤らは、維新後最大の難局に立ち向かわなければならなくなった。

 西郷は、人間味あふれる人格と驚くべき胆力によって、圧倒的な人望を築いていた。維新後は、明治政府そのものより信頼が高かったほどだ。

 同じように革命家だった大久保は、維新ののち政治家として力を発揮していく。西郷は士農工商の「士農」を最後まで重んじ、大久保はそれまで身分の低かった「工商」を重んじるようになったともいえる。そのちがいが、二人の袂を分かつ要因になったのではないか。

 

徹頭徹尾、無私の政治家

 

 内務卿に就任してからの大久保は、絶大な権力を一身に集めていた。現在でいえば、総理大臣のほか、重要な省の大臣を5つか6つ兼ねるほどの権力を持っていた。

 明治11年5月14日の朝、大久保は紀尾井坂で襲撃に遭い、絶命した。喉元に刀が突き立てられたままだったという。享年47歳だった。

 死ぬ日の朝、大久保は面会した福島県知事にこう述べている。

「明治元年からこの10年間の日本は創業の時代でもあった。なにもかも初めてのことばかりで、しかも内乱が多かった。それもようやく落ち着きをみせるに至った。これから先の十年が大事な時期で、内治を整え民産を殖やす時期である。これは自分が内務に尽力するつもりである。さらに先の十年は、優秀な後輩があとを継ぐことになるだろう」

 その言葉のとおり、翌年、府県会を開設し、国民が参政権を得る端緒を開いた。

 大久保が凶刃に倒れたあと、世間の関心はあることに集まっていた。あれだけの権力を背景に、いったいどれほどの蓄財をしていたかと。当時、すでに明治新政府の要人たちが汚職に手を染め、不正に蓄財していたという背景があったから、なおのこと関心が高まっていた。

 しかし、大久保家の蓄えは、わずか140円しかなかった。いっぽうで借財は8000円という巨額に達していた(明治10年当時と比べ現在の貨幣価値を1万5000倍とすると、預金210万円に対して、借金は1億2000万円)。

 公共事業の予算が足りないため、大久保は個人で知人から借金し、あてがっていたのである。家も土地もすべて抵当に入っていたため、大久保の死と同時に、遺族は住居すらなくなってしまったというありさまだった。〝宰相〟の名にふさわしい生き方だった。 

 ところで不思議なのは、暗殺される前、島田一郎ら下手人が加賀を発った情報は大久保にも警視庁にも知らされている。それでも大久保は身辺警護をつけず、大久保の腹心とも言うべき川路利良・警視庁大警視も警護をつけるよう命じていない。大久保は、身辺警護をつけるのは弱虫のすることだと思っていたようだ。

 下手人はごていねいに暗殺する数日前、大久保宛に「お命をちょうだいする。ただし、闇にまぎれて不意打ちをするような卑怯なまねはしない」と通告している。

 これは私見だが、その時大久保はすでに生への執着を失っていたのではないだろうか。前年、盟友の西郷を死に追いやり、それ以上生きながらえる意志がなくなっていたのではないだろうか。西郷と大久保は、終生、最良の盟友であり続けた。西南戦争で敵味方に分かれたため、どうしても二人を敵対関係という構図で見がちだが、二人の信頼関係は、ついぞ最後まで途切れることはなかった。

 

 余談ながら、2014年、大相撲の横綱・白鵬が最多タイの32度目の優勝を飾ったときのスピーチに、大久保の名が出てくる。国歌斉唱に続く優勝賜杯授与のあと、白鵬は「(大相撲を残してくれた)明治天皇陛下と大久保利通公に感謝します」と語ったのである。

 文明開化にともなって裸体禁止令が、続いて断髪令が発令された。髷を結えなければ大相撲ではない。

 そのとき、大久保は、大相撲だけは例外にしてほしいと明治天皇に直訴し、大相撲が好きな明治天皇も承諾したのである。殖産興業を進めていた彼だが、失ってはいけない日本文化の〝肝〟はわきまえていたのである。

 

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