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紺碧の将
Interview Blog vol.47

自由を手に入れるため、人生を自らの手で切り拓く。

宮崎未史さん

2018.06.11

 フランシスコ・ザビエルに「坂東の大学」と評された足利学校や国宝の鑁阿寺で知られる栃木県足利市。今年、宮崎未史さんは夫とともに同地でクリニックを開業しました。もともと医療畑でキャリアを積んできたわけではありません。大学では政治学を専攻し、紛争解決をテーマに大学院を修了。その後は前横浜市長の中田宏氏、そして「ヒゲの隊長」こと参議院議員の佐藤正久氏の秘書を務め、今年1月まではエンジニアリング会社の海外営業部門に在籍し、海外を舞台に八面六臂の活躍をしていました。

 大学から海外へ飛び出し、10年間の留学生活ののち、帰国。そして前述のようなキャリアを作ってきた彼女が、どのように目標を掲げ、そのひとつひとつをクリアしてきたのか。そしてこれからどのように生きていこうとしているのかを聞きました。

社会の成り立ちに関心を持ち、海外へ憧れた幼少期

宮崎さんは、弊社の髙久の同志で『Japanist』のコーディネーターでもある横浜前市長の中田宏氏の秘書を務められていたのですよね。

 ええ。髙久さんからのご紹介で中田さんの秘書をさせていただきました。大学院を修了してすぐですから、もう10年近く前のことですね。海外留学から帰国して就職先を探していたとき、知人から髙久さんを紹介していただき、そのご縁で中田さんの事務所でお世話になることができました。ちょうどリーマンショックのときだったのでなかなか就職先が決まらず、ある国会議員のところで期間限定のアルバイトをしていたんです。そんなときに、中田さんとのご縁をいただきました。

もともと政治家の秘書になりたかったのですか。

「政治家秘書」と限定してはいませんでしたが、海外にいたころから、政治の世界で働きたいと考えていました。大学では政治学を専攻していましたから、10代後半からずっと「正義とは何か、平等とは何か」などと政治的、社会的問題を議論する環境にいました。そういう話題に興味がない人に会ったりすると、「どんなに興味がなくても生きている限り政治に影響されないではいられない」と諭すような20歳でした(笑)。今考えるとちょっと恥ずかしいのですが。いずれにしても、社会を成立させる基盤である政治への関心がとても強く、その世界で働きたいと思っていました。

高い意識を持って学ばれた大学時代と思われますが、そもそも宮崎さんはどのような子供だったのでしょう?

 幼い頃はおとなしくて、あまりしゃべらない子でした。今の私を知る方でしたら誰もお信じにならないと思いますが(笑)。周りからは「ニコちゃん」と呼ばれるくらい、ずっと笑っている子だったようです。小学生の時は絵や本・漫画を描くのが好きでした。三人兄弟の長女ということもあってか、弟妹の面倒を見る良い子だったと両親には言われます。

ご両親も安心してご兄弟のことを任せられたのでしょうね。自慢のお嬢さんだったのではないですか。

 両親からはたくさん愛情をもらいました。両親は共働きでしたし、べったりしたものではありませんでした。また、教育については自由放任というか、自分の好きなようにさせてもらえたことがとてもありがたかったです。

 親戚づきあいがとても濃密な家族でしたが、海外で働いたり生活をしている親族も多く、そんな姿を見ているうちに、少しずつ、広い世界へ飛び出してみたいという、憧れのような感覚が幼いうちから芽生えたのだと思います。

その頃から社会的なことに興味があったのですか。

 ありました。小学校の頃から日本ではなく海外で学びたいと思っていました。20歳になった自分が日本の大学に通っているイメージがわかなかったんです。早く世界に出ていかなくてはという焦りのような気持ちがありました。だから、中学になったら留学したいと父に話しました。ありがたいことに、父も一緒になっていろいろと手を尽くしてくれたんですけど、費用の関係で、結局断念せざるを得ませんでした。

猛勉強の日々でつかんだ海外への道

海外留学したのはいつですか。

 大学からです。日本の大学には行かないと決めていましたから、高校3年間は一生懸命勉強しましたね。高校時代の記憶は、勉強と部活動の少林寺拳法しかありません(笑)。高校2年のとき、すでにアメリカのいくつもの大学にアドミッションのための書類を請求していました。必死で手紙を書いて送ったんです。最終的にはアイオワの大学に行くことになりました。母親の知り合いが同大学の卒業生だったこともあって、ご縁を感じ、そこに決めました。

大学では何を勉強したのですか。

 1年目はリベラルアーツを学び、2年目はずっと関心があった政治を専攻しました。とはいえ、ただ勉強するだけではなく、スクールメートやホストファミリーらと連れ添っていろいろなところへ旅行に行き、日本とはまた違ったスケールの大自然を経験しました。夏休みにはブルガリアからハンガリー経由で、当時従姉が住んでいたイタリアのミラノまで一人でバスで旅をしたり、とにかく恐怖も不安もほとんどなく、ただ「見たい、知りたい」という興味だけに突き動かされて、いろいろなところへ出かけていました。今考えると大きな事件や事故に巻き込まれなかったことに感謝すべきですね。

 勉強や旅行を通じて見聞を広め、たくさんの人々と知り合ううちに、広く深く教養を深め、関心ごとを限定せずに学び、相手の立場に立って考えることが大事だと思うようになりました。そしてますます政治学の学びにのめり込んでいきました。

その後、アメリカの大学を卒業されたのですか。

 いいえ、アメリカの大学は2年で中退し、ヨーロッパの大学に行きました。というのも、入学したアイオワの大学がクリスチャン系のミッションスクールだったこともあって、政治の議論にキリスト原理主義的な考え方が介入してくることがありました。社会科学として独立した政治学を探求したいと思っていた自分の考え方とのズレを感じ、社会科学の発祥の地であるイギリスで改めて勉強をしたいと思いました。

イギリスのどちらの大学に入られたのですか。

 最初はイギリスの通信大学(日本の放送大学のようなところ)で単位をとる傍ら、フランスのソルボンヌ大学にてフランス語を学びました。入学準備を進めるうちに、当時タイムズの大学ランキングでトップテンだったバース大学かウォーリック大学に目標を定めて猛勉強しました。結果的に、両方の大学から入学許可をいただきましたが、そのときはもう天にも昇るような気持ちでしたね。嬉しすぎて、そのまま外に飛び出して夜の町を駆け回ったくらいです(笑)。そしてバース大学を選び、同大学で3年間、政治経済を学びました。

それは嬉しいですよね。実力で勝ち取った成果です。大学卒業後はどうされたのですか。

 バース大学を卒業後、スウェーデンのウプサラ大学で平和構築・紛争解決の修士課程を修めました。ウプサラ大学は北欧最古の大学であり、卒業生には第2代国連事務総長を務め、「コンゴ動乱」の停戦調停で活躍したダグ・ハマーショルドなど、多数の著名人がいます。当時のスウェーデンは大学や大学院での授業料が外国人に対してまで無料だったのです。イギリスを離れてヨーロッパの他の国で勉強できたことは、自分の経験をさらに広げてくれました。大学院卒業後、ジンバブエで外務省の草の根事業で働けるチャンスがあったのですが、恩師から「一人で死ぬ覚悟がないなら、その仕事は断った方がいい」と言われ、とても悩んだうえ断念しました。悔しくもありましたが、政治に関わるのであれば何も海外ではなくても日本でもできるじゃないかと思い、帰国することにしました。その後は、先ほどお話ししたとおりです。

豊かな経験と人との縁を手に新たなステージへ

中田さんの秘書はかなりハードでタイトと聞きますが、本当ですか(笑)。

 中田さんは道なき道をぐんぐん進む人ですし、仕事に対する取り組み方もまっすぐな方ですのでとてもきつかったです(笑)。最初の1年間は泣いてばかりいました。朝も夜も休みの日も関係なく連絡がきます。お風呂に入るときも携帯電話をすぐそばに置いて、いつでも受け取れるようにしていました。あまりのハードワークで大変でしたけど、あの2年間がなかったら今の私はいないと思っています。

 当時、くじけそうになっていた私に髙久さんがかけてくださった言葉は今でも忘れられません。「人の3倍は働いているよ。そう考えれば、2年間は6年分の働きだ」と言われたときは、本当に救われました。

 そんな私を使い続けてくださった中田さんに対しては感謝しかありません。自分の至らなさもわからず、仕事も一人前にできないくせに言い訳ばかりしていましたが、中田さんからは仕事に向かう姿勢を徹底的に体当たりで教えていただきました。だいぶしんどかったかとお察しします(笑)。本当にありがたいですね。人とのつながりやご縁に感謝します。

佐藤議員の秘書を務めた後は、まったく違う職種に転職されていますね。

 はい。メタウォーターというエンジニアリング会社に3年半勤めました。海外営業部のチームの中で、日本の上下水道技術を世界に売り込むべく中東・欧州・アジア等各国を飛び回っていました。政治家の秘書は、あくまでも政治家その人が前面であり、秘書はどちらかといえば受け身の姿勢です。ですから、今度は攻めの姿勢で自分の人生を生きたいと思ったんですね。それも、国内の仕事ではなく、海外での経験を生かせるような仕事を、と。その頃、夫との出会いもありました。

今年に入ってメタウォーターを退職されたのですね。

 はい、まったく予想外の展開でした。都内の病院に勤めていた夫が今年1月に栃木県足利市でクリニックを開業したんです。開業準備の段階では、私は働き続けるつもりでいました。ですがいろいろ考えた末、夫とともに生活することを選び、そして新しいキャリアへ向けて学習する時間を作ろうと考えて、思い切ってチーム・メタウォーターを辞めさせていただきました。

 足利はブラジル人が多く住む大泉町などに近いという地域柄もあって、私たちのクリニックには外国人の患者さんも多くいらっしゃいます。多くの方が健康保険をもっていません。しかも、お金ももっていない。そういう人に対し、無償で診察することもあります。病院に行きたくても行けない重病の外国人の患者さんは、死を待つしかないんですよ。信じられますか? 治療すれば治る病気なのに、お金がないから病院に行けない。今のこの日本で現実にそんなことがあるんです。経営をしていると、そういうことに対しても自分たちはどう関わるかを判断していく必要があります。お金や保険がないならと診察を断るクリニックや病院も多い中で、自分たちはどうするのか。日々勉強になることばかりです。

たしかに、今は外国人労働者が増えています。今後、ますます増えるとなると、健康保険の問題はかなり深刻だと思います。しかし、経営の一端を担うとなると、かなり重責ですね。宮崎さんの向上心と反骨精神をもってすればそれもクリアできると思いますが。

 そうですか(笑)。ただ、クリニックはあくまで夫の仕事であり、私のキャリアではないんです。女性って補助的役割を好む人もいますが、私は自分の安全保障上(笑)、自分の足で立っていないと不安なんです。これからも自分の自由を守り、社会に貢献できる人間であるために、自分自身のキャリアを作っていきたいと思っています。そのために、新しい分野の勉強を始めたところです。最近、妊娠していることがわかったのですが、仕事から離れている時間を使い、子供を生むだけではなく、できる限り勉強をしたい。クリニックの経営だけではなく、自分の夢を描き、自分の手でつかみたいです。そんなチャンスを与え、応援してくれる夫や家族に感謝しながら、人生を切り拓いていきたいと思っています。

バイタイリティ溢れる宮崎さんの生き方は、女性の新しい生き方のモデルになりそうですね。体に気をつけてがんばってください。

ありがとうございます。

(写真上から:名古屋にて弟と妹とともに、バース大学卒業式、2015年ごろアブダビにて)

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