死と永遠
目下の所、私のライフスタイルはウィークデーを東京で、週末を含め数日を宇都宮で、という配分になっている。日数でいえば半々というところか。
都内での住居はすでにこの欄でもたびたび書いてきたが、新宿御苑間際のマンションで、窓の外は御苑の木々という絶好の地である。それこそ手を伸ばせば、もう少しで葉っぱに手が届きそうなくらい木々が身近にあり、鳥のさえずりがいつも聞こえる。夏は蝉の声で目が覚めてしまうほどだ。それほど静かな場所なのに5駅利用可能で、都内でもっとも私好みの場所といっていい。
一方、宇都宮の自宅はJR宇都宮駅から約10キロの郊外にある、総戸数1000戸以上の大規模な住宅地の中にある。平凡かつ平穏な住宅街の中に、自分のプロデュースで風変わりな家を建てた。
その住宅街のいい点は、住民協定によって3階以上の建築物がなく、コンビニや居酒屋などの商業施設もいっさいないことだ。雑然としたところに住むのは耐えられないので、じつに快適である。2階のベランダに出れば、とても見晴らしがいい。また、隣近所との関係はつかず離れず良好で、嫌な人はひとりもいない。互いに必要以上の干渉はせず、それでいて家族が不在の時は、犬の散歩をお願いできるという間柄である。そこに居を構えてすでに20年以上たつが、とても暮らしやすい場所だと思う。
ところで宇都宮にいる時のウォーキングコースは県の総合運動公園だと以前書いたことがあるが、その近くに古墳群がある。右上の写真がそれで、名は塚山古墳という。前方後円墳が3基集まったもので、作られたのはなんと西暦400年代後半という。大化の改新の200年近く前である。いったい誰が葬られているのだろうか。調べれば資料があるのだろうが、残念ながら近くに立つ案内板には書かれていない。
それにしても昔の人はいかに死者を畏れ、敬っていたかわかる。こんなに大きな墓を造っていたのだから。
そういえば、漢字博士の白川静氏によると、私の姓にもある「久」の字は、人の死体を後ろから木で支えているという象形文字からできている。人の生はわずかひとときであるが、死後の世界は永遠であるという考えから、「久」は永遠を意味する言葉となった。同じように、「真」の字は行き倒れの死者を意味するが、その後、真の存在、つまり真実を意味するように移り変わった。死が永遠という意味に転化するのは明らかに仏教の影響だろう。
この古墳の前を歩くときは、いつも死について考える。
(110310 第235回)